皆野町にあった高松城は、今からおおよそ40年近く前に採石のため喪失した山城である。
以前から「遺構は完全に喪失した」と散々情報があり、実際にその喪失現場を目の当たりにしている。

現在の高松城跡地の遠景。黄色に塗ってある部分がかって見えていたであろう高松城の山塊。
城郭大系に掲載されていた写真を元に、以前見えていた城跡を写真上で復元して望む。
それにしてもこれだけ大きな山をごっそり削ってしまうのだから人の力は凄いものがある。
最近この高松城跡地の地形図にかっての縄張り図を照らし合わせた所、一つの疑問が生じた。
もしかして・・・
一番外側の堀切って残ってない?中世の城館調査において、人の情報よりまず自らの目で遺構を確認する事が大切だ。
かくして現地に赴いて、何処まで城があった山が削り取られてしまったか確認してみる事に。

・・・あった。
一番西の曲輪の半分は喪失しているものの、一部は残っていた。
自分が城館探訪を始めて以来、「喪失した」と散々言われていた遺構が目の前にある。
ただ、堀切の寸前に「立入禁止」の柵が設けられているため、堀切の底に立つことが出来なかった。
でも失われたと思われていた遺構が目の前にある、これだけで胸いっぱいの感動があった。

別の角度から堀切を望む。
城郭大系の要図には空堀4と名づけられている堀切は、もしかして土橋だったんじゃなかろうか?
もう他の遺構は喪失しており確認する術が無いが、ここに関しては端が土橋だったと思えてしまう。

という事で現存部分を中心にお絵かきしてみた。
削られた地形の内部にうっすらと失われた遺構を書き込んでかっての光景を妄想する。
ただ一つ残された貴重な高松城の遺構、これからも大切に残して欲しいものだが・・・。
地元高松集落の方に伺った所、最近は採石事業も休止しているみたいな話を聞いた。
もし可能であるならば、採石が終わったら公園にでもしてもらい、
この遺構がいつまでも見れるようにして欲しいと思う所である。
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- 2013/03/25(月) 19:11:28|
- 城館探訪の事(埼玉県)
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昨日今日の二日間は寄居町にある花園城で過ごしていた。
あの(個人的に)恐ろしい程に複雑な遺構を書き表せられるか試したかったのである。
果たしてどの位で書き終えられるのやら?

花園城に来るのは数年ぶりだが、お手製の看板で案内されていた。
この城に行くのに麓の諏訪神社をいつも利用させてもらっている。
車は神社前の線路沿いの道路に路駐する。
途中で道がかなり狭くなるので交通量が少ない道なので、よほど長時間駐車しなければ大丈夫だとは思う。
神社本殿に突き当たったら右に花園城への道がある。

まだ三月だというのに「ハチに注意して下さい!」という看板が途中から出てくる。
でも今年は暖かくなるのが早いので、そういった野生動物の活動も早く来そうだ。

しばらく進むと山の斜面を駆け下りるかの様に竪堀が築かれている。
それはずっと麓の方まで延びており、何処まで伸びているのだろうと気にはなる。
この竪堀の東側にもう一つ竪堀が出てくるので、それ沿いに上っていけば城の遺構が現れる。

本曲輪付近は確かに笹薮が伐採されて綺麗になっていた。
しかし、他の曲輪は前までと同じように藪化したままで、
お絵かき修行の難関として立ちふさがる事は見えている。

花園城は大きく分けて四つのエリアに分かれており、それぞれを巨大な堀切と竪堀で区切られている。
そしてそれぞれのエリアは独立した城として機能するのに充分な遺構を備えており、
北武蔵に勢力を持っていた藤田氏の力の象徴を、遺構が物語っている。
写真は一番東側の竪堀で、ここから見る遺構も絶景である。
この城で一番のクセ者は堀切でも竪堀でもなく、西側の帯曲輪(犬走り?)の密集地帯であると思う。
山の斜面に人が一人か二人ぐらいしか通れない帯曲輪を無数に構築しており、
これに城柵でも設けられていたら否応無しに横しか動けず、攻め手は横矢を受ける。
この帯曲輪は山の中腹より更に下まで幾重にも重なっており、巨大な迷路を作り出している。
今回の丸二日があっても書ききれない程、山の斜面に広く複雑に作られている。
それどころか描いている内に方向感覚が麻痺し、接続する帯曲輪を間違えて描く事態が続発。
笹薮がそれに拍車をかけており、ここは更に時間をかけないと全体を把握するのは困難だと思う。
途中で調査を止め、麓に戻る際に来る途中にあった竪堀がどこまで伸びているのか確認したくなった。
竪堀に戻りひたすら堀沿いに山を下っていく、途中で竹林を経由して出た先は・・・

麓の廃屋脇だった。
ここまで竪堀を伸ばす理由はよく分からないが、単純に麓の居館との連絡に使っていた城道か?
まさか麓までしっかり伸ばしているは思わなかったので、正直驚いた。

そして自宅に戻り、花園城の浄書しようかとセットするまでは良かったが、
疲れて描く気力が失せてしまった。もうしばらくは花園城はいいやって状態に・・・
でもいつかあの帯曲輪の群れに再挑戦したいとは思っている。
- 2013/03/18(月) 23:09:13|
- 城館探訪の事(埼玉県)
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小瀬戸城所在地
今日は所用があり遠くまで行けないので、どこか行ける所を考えたら小瀬戸城を思い出す。
城とは名ばかりで本当は砦ぐらいの規模しかないのだが、ここはそれなりに良い遺構がある。

飯能市第二小学校東隣に消防小屋があり、その間の道から小瀬戸城へ行く事ができる。

ちなみにこれは十年前の同所の写真。消防小屋の建物以外は特に変わった様子は見られない。
だけどこの時小学六年生だった子は今や二十歳を越えているというのを考えると
年月の経過の早さを感じずには居られない。

途中から人しか通れない里道を使い、小学校を北側から回りこむように登っていく。
尾根に出たら南に向かうとこの城の唯一の遺構とも言える堀切に巡り会う事ができる。
本当に尾根の先端をこの堀切で分断しただけのシンプルな遺構だが、自分的には好みである。

これまた十年前の堀切写真。土橋以外は藪に包まれてよく分からない写真になっている。
(昔のデジカメだったので写真のブレがハンパじゃない)
今日行って驚いたのは十年前に比べて、藪がしっかり伐採された事。
よし、以前はともかく今ならお絵かきの練習をする絶好のチャンス。

小瀬戸城の本曲輪。東西約10m、南北約20m程の広さで、木に覆われているため視野は効かない。
今まで平坦かと思っていた地形だが、堀側に少し土盛がされ、西側も若干ではあるが盛り上がりが見られる。

金毘羅神社がある西南端の尾根先を見る。
この先は岩崖で、危険防止のためタイガーロープ(黒と黄色が交互に付いたアレ)が周囲を囲っている。
その後堀切より北側に少し登ってみたものの、全てが自然地形であった。

小瀬戸城のお絵かきから書き出したおおまかな概略図。
5分で描いたため、非常に雑な絵だが大まかな遺構の構造が分かればよし。
遺構の大きさも分かり易いように巨大化している為、この大きさではない。
ここの所埼玉県内の城館跡を再訪問しているが、なかなか見落としが多い。
再訪問ながらも楽しく訪問させてもらえた。
- 2013/03/11(月) 21:51:51|
- 城館探訪の事(埼玉県)
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比企郡と入間郡を分ける山々の一部に大築城と呼ばれる山城があった。
その城は昭和40年代の台風の風害で、人々にその美しい遺構を披露したのだという。
そんな大築城にそういえば数年行ってなかったので久々に訪れる事にした。
ところが久々過ぎて何処から登ったのかをすっかり忘れてしまったのであった・・・。
かくしていつもと違う麦原集落の宝勝院境内から登っていく事になってしまった・・・。
途中で運良く以前歩いた道と合流でき、ここから再訪問の始まりであった。

余りにも小築山に登る人が多かったのか。
間違え易かった分かれ道に案内が付いた。

モドロノ郭に設置されていた解説板が何故か倒れそうに。
以前はちゃんとまっすぐ立っていたのに・・・地震のせい?

モロドノ郭は木を伐採してあるので、ちゃんとさいたま市のビルも見える。
前回来たときはガスがかかっていて見えなかったので、いい風景に満足。

モロドノ郭を抜け、しばらく歩くと竪堀を通って城へのショートカットができる。
ただ、竪堀をそのまま登るので、勾配がわりとあるので健脚向け。

竪堀の直登をこなせばご褒美の城館遺構が待っている。
大堀切もいいけど、この虎口もなんともいえぬ味わい深さ。

本曲輪にも解説板が設置されている。
この日(2013年1月28日)は北風が強くて強烈に寒かった。
寒かったのだが、ここの遺構に萌えを感じた。

大築城が築かれるきっかけになった慈光寺も大築城からしっかり見れるようになっていた。
それはいいんだが・・・木がなくなった為、吹き付けて非常に寒い!!
その後、あまりにもいい遺構なので、日没した後までお絵かきしてしまったのであった。
久々に鞄からヘッドランプを取り出し、大築城を後にした。
降りるのは早くて、麦原集落までおおよそ15分ほどで着いた。

見せても仕方ないが、現地で書き写した大築城の下書き。
今回はGPSを持っていたので、標高まで記入できた。

先ほどの下書きを元にケバ図を描くとこんな感じになった。
モドロノ郭はまた別に書く予定なので、今回は除外してある。

ケバ図だけだと立体感が湧かないので、ついでに俯瞰図も描く。
俯瞰図の描き方がおおよそ45度傾けた向きになりがちで、
裏側の竪堀まで描けない。
これを80度ぐらいにまで持っていければ結構いい感じになりそうだ。
うん、また修行あるのみだな。
- 2013/01/29(火) 01:04:21|
- 城館探訪の事(埼玉県)
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リュウガイ城所在地今日は午前中じっくり寝て、午後から飯能市原市場のリュウガイ城へ行ってきた。

妻沢運動場よりちょっと先に、丸太の橋がかかっている。
ココからリュウガイ城のある山へと取り付く。
稜線に出るまでは結構急でかつ明確な道が無いが、
現在の所はここの道が一番良いように思える。

登っておおよそ30分ぐらいで本曲輪に到着。
本曲輪は東西約30m強、南北10m程の長方形をしている。
中央には大杉が枯死した際に出来た穴(抜根?)がある。

以前来た時にも興奮したが、今日はこれを更に絵にするべくやってきたのだ。
さっそくスケッチの道具を取り出したが・・・重要アイテムの一つ、コンパスを車に忘れてきてしまった。
仕方ないので太陽の指す方角からおおよその方角を割り出してスケッチする。
尾根から尾根へとくまなく周り、大雑把な絵が完成した。

帰りは奥秩父線53号のある尾根から直降。
転がるように降り、ついに53号へ。
ここから先は鉄塔保守道があるので、比較的楽に降りる事ができた。

下書きはボールペンでちょちょいと書くのでミスだらけである。
一応リュウガイ城の俯瞰図が完成したのでアップ。
やはり文章で表すより、絵で書いた方が遺構の構造を理解し易いね。
- 2013/01/13(日) 17:41:13|
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