竹沢氏館より国道254号線を東京方面にちょっと走らせて、川窪氏館へ。
一般的には「武田信俊館」と言われているようだが、ここに住んだ時点では「川窪」姓を名乗っているのでこれに従ってみる。

川窪氏の館があり、墓所があるのが現在の輪禅寺である。
丁度寺が西から伸びる尾根上にある。

輪禅寺の山門前より東を見る。
特に意味はないが、国道254号に近いながらも随分とのどかなので、和んだ。
さて、肝心の館跡へ。

新しく山門脇に作られた解説板は「武田氏」を強調しているようにも。
確かに「川窪氏」じゃ「誰?」って言われてしまうのもオチだし・・・。
写真の鷹の絵、細かいところまでよく書けていて川窪信俊の絵の才能を垣間見る良い機会だった。
(それまで絵を描いている事すら知らなかった・・・)

墓地の中央には川窪氏の墓所となっており、格式の高い宝篋印塔が建てられている。
笠などに欠損なくしっかりと保存されているのは輪禅寺の歴代住職様に守られていたからであろう。
っと見たいのはあくまで遺構なので、この辺りで遺構を探しに行く事に。

っと本堂の後ろ(北)にいきなり土塁のような高まりを発見。
更に別角度で見ると・・・

虎口?
見えなくもないが・・・ちっと微妙な感じがしていたりする。
実は後で尾根を断ち切るように堀があるか確認するの忘れてしまった。
また機会を見てお墓の西側を調べさせてもらいたいものだ。
スポンサーサイト
- 2011/05/31(火) 04:59:18|
- 城館探訪の事(埼玉県)
-
-
次はちゃんとした館跡をという事で児玉党の一門である竹沢氏の館跡へ。

雲龍寺の背後にその館跡があるという。
狭い道を車のナビが頑張ってナビゲーションしてくれたので一発で到着。
北は丘、南に向かってなだらかに地形は落ちている。

雲龍寺の北には熊野神社があり、館跡はこの辺りを指しているようだ。
ではお楽しみの平場を拝見っと・・・

当然ながら平場は草ボウボウである。
うーん、今日は藪漕ぎする予定がないので平場をちょっと見ただけで撤収。
資料の図面を見ると色々と平場が点在している模様。

竹沢氏館より南を望む。
ちょっと草が生い茂ってはいるものの、南に開けていていい立地条件だ。
水の手の確認はしなかったが、恐らく井戸ぐらいはあったと勝手に判断。
段々調査がずさんになってきたような??
って事で次の場所へ移動するのであった。
- 2011/05/30(月) 05:25:42|
- 城館探訪の事(埼玉県)
-
-
小川町の吉野城は謎の多い城である。
それは3箇所ほど候補地があり、場所が定まっていない事に尽きると思う。
その候補地の一つである万所へ。

木呂子地区に来た。
右を走るはJR八高線、写真中央が気になる橋なのだが・・・その名は。

吉野橋。
小字等を調べていないので何とも言えないが、吉野とはこの辺りの通称なのか?
例外を除けばこの辺りが吉野と呼ばれている可能性がある。

国道254号線と八高線が分かれる辺りにあるこの山。
見るからに砦に相応しい地形ではあるが、後で地図を見てみたら前後の山があって周辺の見通しが悪そうだ。
今回はどんな場所なのかを見るために来たので、登らずにこのまま引き返す事に。
(この時点では「小川町史」を見ていなかった・・・)
って事で次に。
- 2011/05/29(日) 05:12:28|
- 城館探訪の事(埼玉県)
-
-
小川町の木部地区はかっての竹沢村の一地区でもある。
そんな木部地区の奥に西屋敷という屋敷があると知ったのは・・・ちょっと前の事。
折角小川町の城館跡を回っているので、この西屋敷へと訪れる事にした。

車を路肩に停める事も出来たが、ちょっと不安なので官ノ倉山の登山道入口付近まで来て、車を停める。
そこは農業灌漑用のため池になっていて、腰を下ろして今まで回ってきた疲れをちょっと癒す・・・。
湖と森・・・しかも周囲は交通機関から少々離れているので実に静か。
一応マイナスイオンは受けていると思う。

水面を見ると多くのアメンボが水面を動き回っている。
よく見ていると同じアメンボでも色々種類が居るのに気付いた。
こんな感じで城館探訪の途中にも関わらず、まさかのアメンボ観察をしてしまった。
では休憩もできたし、本題の西屋敷へ。

先ほどのため池付近より西屋敷周辺を望む。
この辺りは車では行き止まりになるので、通る車も非常に少なく本当に静かである。

山間の集落の合間を縫って、川が流れている。
その名は・・・

ズバリ、「西屋敷沢」である。
それにしても本当にこの看板、沢の名前を知るのに役立つ。

集落の一部に東に向かって段を築いている場所がある。
恐らくここなのだろう。
詳しい事は聞き込みをしなかったので不明のままである。

なお、西屋敷より下流(北)には三光神社があり、こちらは児玉党竹沢氏の子孫によって創建されたと解説板には記されている。
これ以上に詳しい調査を「
そこに城があるから」の方でされているのでそちらを参考に。
して次なる場所へ移動するのであった。
- 2011/05/28(土) 05:07:49|
- 城館まがい地の事
-
-
こちらも「
そこに城があるから」の左馬助様のブログを読んで猛烈に行って見たかった所である。
詳しい事は上記のブログを参照の事で。

確かに「いい形してますね~」という丘がある。
ちょっと民家のまん前を通過するので入り辛かったが、裏の竹山にお邪魔させていただいた。

前の民家も石積みされていて、これも遺構?っと思える節も。

ちょっと登った所で削平地登場。
少々狭いが掘っ立て小屋一つ建てるなら全然申し分ない広さはある。
もちろん更に上に上って行く事に。

こちらもまったくの自然地形ではなく、ある程度人の手が加わった痕跡があり。
それにしても左馬助様もよくここを発見なさったものだ。

一応作りかけのような堀切もあり、本当はここが土を盛られてさらに深くなっていたのかも知れない。
明確な遺構はこの辺りまでで、北に尾根は伸びているが全て自然地形であった。
あとこの辺りの遺構が余りにも良いので、思わず西の竪堀状の道を撮影し忘れてしまった。
中城も良かったけど、ここもいい意味でテンションを上げさせてもらった。
そんな事で次の場所へと移動するのであった。
続きを読む
- 2011/05/27(金) 05:10:36|
- 城館まがい地の事
-
-
ここまで来たからには中城も見たくなり、数年ぶりに訪問。

北側にある陣屋沼より中城を望む。
東方に伸びる舌状台地を上手に利用した城で、小川町の市街地でありながらこの保存状態は嬉しい所。

一応、陣屋沼公園利用者であれば車が二台分駐車できる。
この日も晴れていたのだが、利用している人が居なかったのでちょっと使わせてもらった。

中城は外周をさらに土塁が囲っている城で、この手の込んだ作りもまた見ごたえがある。
やはりまがい地ばかり周っていると、たまにこういう良質の遺構が見たくなる。

数年前に訪れたときにはこんな看板無かったような?
中城の遺構というより仙覚律師の居住地である方が有名のようで、中城より目立った文字で書かれている事が多かった。

一瞬「場違い?」と思った階段だが、遺構の保存を考慮すると最善策とも思える。
確かに多くの人が歩くと遺構が磨り減ってなくなってしまうから。
土橋などの設備が見られない所を見ると、現役時代ここは板橋でも渡して通行していたのだろう。
流石に橋になるとメンテが大変なのでこういう階段で対応したという感じ。

相変わらず本曲輪のテニスコートは健在だった。
流石に平日なのでテニスをプレイする人の姿は見られない。
前回も見なかったのでここを利用している方が居られるのかは分からない。

中城から小川の街中を望む。
こう見るとこの辺りを治めるのに丁度いい立地条件だったのがよく分かる。
これより先は急落しており、街中になる。
久々に行った中城であったが、比較的草も刈り取られていて見学し易かった。
そんな良い遺構を見て、テンションを高めたのであった。
- 2011/05/26(木) 04:35:28|
- 城館探訪の事(埼玉県)
-
-
昨日は思い切り寝てしまい、夜に起きて昔の航空写真を見ている。
戦後の郷土は家屋が少なく、見渡す限り畑や水田。
時々神社等の境内が森になって写っているのが何ともいえない味わいがある。
この時代を見たことがなかったので、いつも通っている場所がどうなっているのか?
戦後(特に米軍機が撮影した航空写真は秀逸)の広々とした武蔵野に思いを馳せる。
当時の人々はそれどころではなかっただろうが、自分の頭の中だけタイムスリップするのもいい。
湾曲する河川に惹かれ、今は無き古道と集落に感動する。
城館跡の研究をするのにこの航空写真の存在が欠かせないものになりつつある。
って事で思い切り6時間ぐらい色んなところを見てしまったのであった。
- 2011/05/25(水) 02:57:09|
- 研究の事
-
-
先の八幡神社よりプラプラと歩いて着いたのは大梅寺。

このお寺、緩やかな尾根上に所在していて、南は谷地になっている。
でもそれ以上でもそれ以下でもないという感じ。
一応小河次郎の屋敷候補にはなっているのだが・・・。

寺の東側は住宅地が造成されている。
もしここを堀切などがあれば、それを切通しとしているのではと思ったが、その痕跡は見当たらず。
境内に生えているノッポな木なら昔の事をしっているのかも知れないが・・・

寺の北側はまた谷地になっており、急落している。
丘だから水は下からくんできたのかと思いきや、境内には井戸らしいものもあった。
地形は確かに良い場所ではあるが、遺構らしきものは見当たらなかった。
というオチで大梅寺の調査は終了。
- 2011/05/24(火) 05:21:43|
- 城館まがい地の事
-
-
当サイトとリンクされている「
城跡ほっつき歩き」と「
そこに城があるから」で同地が紹介されているので、詳しい事は各サイトへ委ねてっと。
中世城館まがい地候補として名高いこの地は、前々から訪れて見たかった所であった。

住宅地の奥にある茂みが仮寓地であったとされる八幡神社である。
こうやってみると本当に城館っぽい雰囲気がある。

八幡神社境内に到着。
この辺りは小川町の市街地に程近いのだが、近くでウグイスが鳴いていたりと実に風情がある。

解説板にも守邦親王が鎌倉幕府滅亡後、この地に仮寓した際に八幡神社を創建した旨が書かれている。
あくまで言い伝えなので真実か分からないが、もしそうだとしたらワクワクする話だ。

八幡神社の南側は堀底道とも思える道となっている。
道路の南側はたしかに土塁になっているのだが・・・更に南には県指定史跡である穴八幡古墳があるので、そちらの遺構である可能性も。

神社の西側の杉林には謎の窪みが・・・かなり浅いものの堀に見えてしまう。

もう一丁違う角度から。
道路に並行して溝が南北に伸びているのだが・・・写真じゃわかり辛いのが残念。

溝の北は運動場造成によって喪失してしまっていた。
こちらはかって馬場であったという話も出ており、今昔で運動する場所になっているのは何の因果か。

実は八幡神社の北東にも怪しげな土塁が存在する。
こうやって神社の周辺を周ってみると、方形館としても不思議でない趣がある。
その真相についてはいつか発掘調査でもする機会があれば判明するのだろう。
ちょっとした散歩もできたし、城館跡であるかは別にして楽しく歩かせてもらった。
続きを読む
- 2011/05/23(月) 04:46:23|
- 城館まがい地の事
-
-
今回はちょっと小川町から外れて近くの東秩父村へ。
以前から訪問した事の無かった上田氏家臣である山田氏の屋敷跡へ。

安戸地区の中心付近に「上品(じょうほん)寺」があり、屋敷跡はこの付近らしいのだが・・・
所在地が曖昧だったので、当サイトとリンクしている「
そこに城があるから」の左馬助様が調査をなさっているので、参考にさせていただいた。
どうやら東秩父団地というマンションの付近にあるようなので、早速「山田屋敷」で聞き込みしてみた。
すると最初に尋ねた方がズバリ現代の御当主様であらせられた。

お忙しい最中に関わらず、件の標柱までご案内いただいてしまった。
左馬助様のサイトだと綺麗に標柱が撮影されているのだが・・・今回はちっとフラッシュもつけなかったので大変見づらい。

御当主様のお話によれば、以前は緩やかな傾斜だったのだが、農業器機の機械化によって平坦になったとの事。
という事はここは屋敷跡?それとも屋敷が傾斜に建てられていた?
答えはその奥の茂みにありそうだ。
御当主様の許可をいただき、奥へ侵入する事に。

近年植林されたと思われるその杉の中は、僅かながら削平されたような雰囲気があった。
だがこの先は「関係者以外立ち入り禁止」の標識があったので、やむを得ず引き返した。
御当主様のお話によれば一番上の岩の付近より板碑(年号は聞いたが失念)があるそうだ。

ここまで上がると比較的周囲が見渡せる。
結局どこまでが屋敷跡なのかよく分からぬまま終わった印象があるが、山田屋敷の調査は今回これで終了。
再び小川町に戻る事にした。
参考サイト:
そこに城があるから
続きを読む
- 2011/05/22(日) 05:17:45|
- 城館探訪の事(埼玉県)
-
-
最近入手した健康情報をちょっとアップ。
もちろん真相は不明だったりする。
● 食事をするとき野菜から食べると長生きできる。
● お小水をした時、泡が消えないと糖尿病の疑いあり。
● 靴は足の表でしっかり押さえる靴でないと巻き爪になる。
なんだか最近こんなネタばかり聞かれるようになってきた。
だんだん「ギクッ!!」っと来るような事も出てくるかも知れないな~
- 2011/05/22(日) 04:41:26|
- その他の事
-
-
比企郡小川町にある腰越城に程近い所に「内出」なる地名がある。
この「内出」の地名は館から「討って出る」場所であった事から名づけられた由来があり、これが「打出」→「内出」と読みは同じで漢字だけ変わった事が多い。「堀の内」「陣屋」「屋敷」らと並んで、当方がもっとも過剰反応を示す地名の一つである。
他にも農地検地において杭を打って測量した事から名づけられたという説もあったりするが、この内出に関してはどこもみな中世城館を配置するのに相応しい地形であったりする。
前置きが長くなったが、早速内出地区を訪ねてみよう。

腰越城から南西に槻川を挟んで600mほどの所が内出地区。

この集落を流れる沢もまんま「内出沢」
それにしても本当にこの標識には助けられる。

内出集落南にある氷川神社本殿。
背後の露出した岩がなんとも風情を誘う。
一応この周辺を調査してみたが、それらしい地形は無かった。
となればやはり「内手沢」が流れる場所を見に行かねば。

内出沢周辺は古くからの家が多く、東へ緩やかに傾斜している地形を土を盛って平にしているように見える。
先ほどから名の出ている内出沢が堀の役割を担いつつ、水の手になっていただろう。
地名から推察すれば在地土豪の屋敷で、戦国期には近くの腰越城の城兵が平時住まう居住地だったのかも知れない。
なお、直接城館跡に結びつける遺構等は見当たらなかった。
かくして次なる目的地へ向かうのであった。
- 2011/05/21(土) 04:38:36|
- 城館まがい地の事
-
-
本日の調査地は埼玉県比企郡小川町+α。
山城もあるが、今回は手軽に回れる「まがい地」めぐりを交えて行く事に。
そんな事で小川町の通り慣れない道を通った時に、土塁のような土盛りを発見してしまったので車を停めた。

ここは小川町青山の某所。
単なる土盛りだと思うのだが、なんとなく土塁のような趣が・・・。

それはグルッと西側を囲んで伸びており、不思議な事に内側の方が外より低い。
町割りから見ても一辺50mちょっとぐらいのものだが、旧家も多い事で昔からの居住設備だった可能性はある。
こういうのが意外と城館遺構だったりする事もあるので、しっかり記録しておくことに。
・・・と思ったら愛用の道路地図を家に忘れていた。
頼りになるのは周辺地図をプリントしたものだけ。
もっとも我が車はカーナビを搭載したので何とかなるだろう。
かくしてちょっとした寄り道をし、本来の目的地へ向かうのであった。
- 2011/05/19(木) 04:14:33|
- 城館まがい地の事
-
-
天気を見たら今日は晴れるとの事で、久々に城館探訪へ赴く事に。
行くと分かると早朝三時から目が覚める、そして手持ちの資料を見てある程度情報を頭に入れる。
ちっとやる事が多かったので時間かかったが、準備は整った。

出かけてしばらくして朝日が雲から出てきた。
今日はいい1日になりそうな予感。
- 2011/05/18(水) 03:57:38|
- 研究の事
-
-
最近休みになるとぐ~っと寝てしまうことが多くなった。
こう言ってはいかんのだろうが、最近仕事が疲れますな。
夕方より用事を足しに出かける。
ついでに家電店に寄ってプリンタのインクを購入。
さらに15インチのディスプレイで頑張っている父に24インチのを購入しようかと思ったが、目ぼしいのが無かったので諦める。
それにしてもディスプレイもPCも本当に安くなったものだ。
- 2011/05/17(火) 17:33:41|
- その他の事
-
-
ここはまがい地・・・ではなく一応城館跡とみなされている所。
小字もそのまま「北廓」と「中廓」がある。

おお、こんなところにもう遺構が!
って思ったがちょっと様子がおかしい。

ふむ、どうやら「とうかん山古墳」という古墳のようだ。
でもこんだけ住宅地にありながらこれだけの保存状態って凄い。
早速ではあるが、登らせていただく事に。

なんだか上がった瞬間、「屋根より高い~古墳の上~」ってメロディが。
そうだ、今は五月だからそんな歌が出たんだと自身を納得させる。

うーん、この辺りなんか一瞬山城なんじゃないかって錯覚を起す位に素敵だ。
ここは東松山市の野本氏館のように古墳を物見台に使っていたんじゃないかって思う。
肝心の城館跡は宅地化されて見られなかった。
この辺りには亀井六郎清重という者が槍を突いたら水が湧き出た「亀井の井戸」伝説がある。
もしかしてここに住んでいたのもその亀井六郎なのか?
今のところ謎である。
こんな感じで旧大里町のまがい地めぐりを終えた。
てかもう時間も夕方で、ちょいとヘロヘロになりながら帰宅したのだった。
- 2011/05/16(月) 06:28:43|
- 城館探訪の事(埼玉県)
-
-
今回のまがい地めぐりで最もハズレだと思ったのはこの字高城町。
「お?城と名づけてある!」っと思ってチェックしてしまい、訪問してみたのだが・・・

うーん、集落すら無い所からして、かなりのハズレ感。
資料を今一度読んでみたら、どうやら「高城神社」があった事にちなむ名称であったようだ。
まがい地めぐりはハズレが多いけど、色々と見れて楽しいのでそれはそれで満足であったりする。
- 2011/05/15(日) 06:59:25|
- 城館まがい地の事
-
-
旧大里町の沼黒地区には正福寺という寺があり、その周辺の小字がとても魅力的なものがそろっている。
正福寺付近を字「内屋敷」、東側を「東屋敷」、西を「西屋敷」・・・まんまである。
そして南側には字「竹ノ内」という怪しさ満点の小字がズラリと並ぶ。
ふむ、これは調査しないわけにはいかない。

その正福寺に来てみたが・・・どうやら無住の寺のように見える。
まずはそのお墓で最も立派な墓を探してみる。
意外と墓地がその地の土豪を弔った板碑があったりするので、ヒントを得る意味で探しに行く。

ふむ、これはいい宝篋印塔だ。
手掛かりになりそうなのはこの宝篋印塔だけで、板碑などは見られなかった。
もっとも板碑の分布図などがあればよりよいヒントになるのであろうが・・・

さて、周辺を歩いてみるが、当然堀や土塁などは見当たらず。
水路ならあるが堀に直結するのは安易過ぎる。
まがい地めぐりなんてこんな感じという典型的なケースであろう。
ちなみにこの集落は南西300mの所に和田吉野川が流れており、この集落はその自然堤防上に位置している。

逆光で写真写りが悪いが西屋敷の方向。
茂みは丁度屋敷林のようで、周辺に比べて若干高い。
段々グルグルと周っている為か、住民の方々の冷ややかな視線をちょっと感じるようになってきた。
近くでワンちゃんも吼えている事だし・・・ここの調査は終了!
- 2011/05/14(土) 06:40:37|
- 城館まがい地の事
-
-
先の屈戸と同じ地名であるが、こちらはまったく場所が離れて荒川の堤防内。
ここは旧大里町屈戸字中廓と宮廓である。

荒川の堤防上から屈戸字中廓(左側)と同宮廓(左側)を望む。
この辺りは荒川の川辺に集落があったのだが、昭和初期の堤防築堤に及んで立ち退きされたのだという。
川向の熊谷市新川もかっては村だったというが、現在は堤防の内側になるので住む人はいないという。
本題に戻って、この茂みは・・・実に興味が沸いてくる。
早速堤防を降りて行ってみる事に。

堤防の内側にはなにやら道路が。
これは何だろう?っと思ったら看板があった。

ふむ、どうやらテストコースらしい。
車か何かを走らすようで、テスト時には孤立できるように鎖で道を封鎖できるようだ。
幸い今は行っていないようなので、速やかに道路を渡る。

写真じゃ分からないかも知れないが、茂みとその周辺の地形が高い。
明治時代の日本陸軍によって作図された
迅速側図を見ると、僅かだがこの辺りには集落があったようである。
目の前に見える墓地もその名残で当時からある墓地なのだろう。
でもこの辺の墓石は「○○家奥津城」と書かれており、神道系のお墓が殆どであった。

これは土塁?
いやいや、単なる土盛りでしょう。
どうもまがい地めぐりをすると、過剰反応になりがちである。

茂みの方に近づくとこんな看板が。
確かに竹林になっていて、時期が悪いと竹の子泥棒と勘違いされてしまう。

ふむ、これは土塁?でも内側(右)が堀って可能性も。
全ては竹薮となっているため真相不明。
結構気になる場所のひとつである。

そのまま竹薮をつっきって河原へ
茂みのある辺りが川より5m程の高さがあるのがここに来て分かった。
先の看板にあった事もあるので、間違えられない内に退散する事に。

変わって川上の方に歩いてきたら、こういう場所へ。
これだけ見てると城館遺構を見ている気分になってしまうが、この直下は荒川である。

写真じゃ分かり辛いが、ここだけ少し高い所にあり、何も無ければおおよそ10m前後のスペースがある。
ここもなんとなく意味ありげな感じに。

かくして調査終了。
それにしても河原岸の自然堤防上にあり、これだけの空間を擁しているのが気になる所。
中世期には荒川は現在の元荒川が本流であっただけで、こちらも分流が流れていた可能性は充分ある。
とすればここを城館跡と仮定すれば荒川の水運を見張る役割を果たしていた事は考えられる。
色々と妄想が沸き立つが、今は麦畑が風を受けながら揺れているだけである。
- 2011/05/13(金) 12:00:28|
- 城館まがい地の事
-
-
先日の「まがい地調査」のタイトル名を間違っていたので修正。
×屈戸 → ○中恩田
そんな事で今回こそ本番の屈戸である。
旧大里町の北に市田小学校があり、その北東に常永寺という寺がある。
この常永寺の東部分の集落が今回目指す屈戸の字南廓である。

それが件の南廓周辺。
前方の道が屈折しているのが妙に気になる。
最近はこういった屈折する道に気を取られがちである。

まがい地ばかり巡っているとこんな窪みですら過剰反応をするようになる。
単なる排水路であるのは分かっているが、つい堀である可能性を求めてしまう。
なお、他の写真だとまたも民家が写っているので省略する。

この辺りは高い建物が特にないので、空が随分と広く感じられる。
城館跡は特に無いのだが、こういう空を見ているだけで気持ちが癒される。
荒川の氾濫原にあって集落の多い所は地形がやや高い。
ここも洩れず周辺の水田に比べてやや地形が高い。
小字名である「南廓・北廓」とは城館に関連するか?あるいは別の空間に使われた名称か?
いずれにしても古くから何かあった土地である事は言えそうである。
そんな訳で次の場所へ移動する。
- 2011/05/12(木) 13:46:30|
- 城館まがい地の事
-
-
今日も雨なので、部屋に籠もって題名通り。
活字ばかり読んでいるのも飽きてきたので、各資料の図面をスキャナで読み取って画像として保存してみる。
これも昨日の系譜図と同じでかなり時間かかる、かかるけどこっちの方が面白い。
各資料の図面を見比べるてみると、色んな違いがあって面白いのである。
やはり研究者によっては見方が変わるというのがよく分かる。
また小字調査に行かねばならないな~
- 2011/05/11(水) 23:44:26|
- 研究の事
-
-
今日は休みだったが、雨が降るとの事なので、いままで溜まった資料がたんまりあるのでそれを読む事に。
改めて読むと実に面白く、あっという間に一日過ぎる・・・。
ついでなので各資料にある系譜図を簡単にまとめてみた。
本物の系譜図のように横一枚にまとめるという物。
ちっと長くて見づらいけど、見比べ易くなったように思える。
でも・・・持ってる資料全部やるのは相当時間かかりそうだ。
- 2011/05/10(火) 23:37:21|
- 研究の事
-
-
「西内手」に引き続き「東内手」も行って見る。
同じ旧大里町中恩田に有るため東に位置する内手という事で名づけた名前と思われる。
先の西内手より東方に約1kmの地点にある。

こちらも水田地帯にある集落で、用水路の合間に民家が集まっている。
個人的に気に入ったのはこちらの水路。

昔ながらの護岸されていない水路。
一部は護岸されているものの、その殆どが草が生い茂って構成されている。
自分が幼い頃にはこんな水路があったものだが・・・最近は護岸された所ばかりになった。
って事で個人的に(まがい地と関係ないが)お気に入り。

その反動があってか、西側の水路はバリバリ護岸されまくりだったりする。
地元有志の方が花とか飾ってくれているので、無機質な水路もなんとなく彩が・・・。
なお、内手の名づけ元は民家の為写真は割愛。
とっても水路な話になってしまった・・・。
- 2011/05/09(月) 13:54:34|
- 城館まがい地の事
-
-
ふと仕事から帰る時、昔の道を歩いてみた。
そこはかって橋があって、地域の人々の往来を見守ってきた道だ。
でも今は橋が撤去され、その橋のたもとに昔からあったお墓への道になっていた。
現役時代より人が来なくなっているが、それでもお墓への道という第二の生活をしていた。
人の通行のほぼ無い道は、とっても静かだ。
- 2011/05/09(月) 05:10:23|
- その他の事
-
-
かなり寄り道しながらもやってきた旧大里町。
最初に向かうのは大字中恩田にある字西内手。
東内手ももちろんあり、そちらは後日の「その2」で調査する。

この辺りはほぼ民家になっており、少々撮影をはばかられる所も。
そんな事で裏側から失礼させていただく事に。
一応屋敷林が存在しており、北側の入口は見た感じ食い違いに見える。
うーん、こういった民家を館跡に見えてしまう辺り、なんでも遺構に見えてしまう「生活城館病」にかかっておるな。
旧大里町は特に伝承を残す遺構が無いのだが、中世期には久下氏などの領地になっていたと推定できる。
現在こそ荒川を隔てて久下氏の館(伝承)はあるが、今の荒川になったのも徳川幕府による河川改修によるものなので、陸続きであった可能性がある。(川の一部が隔てていた可能性はあったりもするが)
また熊谷市楊井の名を称した久下氏の一族楊井氏もこの旧大里町を挟んでいるので、飛び地でない限りはこの地も久下氏による支配が及んでいた可能性はある。
これらも推測なので確かな事は言えないが、こうして中世期の情勢を読み解くのも城館探訪の楽しみであると思える。
・・・長々と考え事してしまったが、今度は「東内手」へ。
- 2011/05/08(日) 13:32:30|
- 城館まがい地の事
-
-
本畠(本田と畠山の語呂合わせ)地区を離れ、荒川を渡って旧川本町の市街地へ。
次に訪れるのは江戸期の陣屋で甲斐の津金氏が居住していたという陣屋へ。

川本町史に掲載されている推定の町割りによれば、この知形神社が陣屋の東端に接した位置しているようだ。
という事はこれより西側が陣屋の敷地になる。

ここも何気なく気付かなかったが、陣屋の南側の折れのようである。
今は県道が陣屋を貫通してしまった為、より当時の面影を失ってしまっている。

陣屋の内部の畑にさいている花。
あれっとこの花はなんて言ったっけか?
(花の名称に非常に無知であったり)

陣屋の西隣には今は無い天沢寺の北西側には津金氏の墓所が。
津金氏に関しては当サイトに掲載したので、ここでは省略する。 →
津金氏陣屋
かなーり寄り道してしまったが、本題のまがい地めぐりに向かう事にした。
- 2011/05/07(土) 13:18:23|
- 城館探訪の事(埼玉県)
-
-
自分の中では恒例になってしまった城館「まがい地」めぐり。
今回は畠山重忠公の生まれ故郷に程近い場所にある字中居・馬場に突撃してみた。

最初に字馬場から。
写真の竹薮は南側から眺めておりますががいい感じに広がっている。

竹薮を道路が貫通しており、北側に回ると若干低くなっている。
ただ地形的に竹薮の方が若干高まりになっている程度でとくに目ぼしい遺構は(もちろん)ない。

今度は本題である字中居へ。
おお、なんとなく怪しげな竹薮が!
さっそく近づいて見る事に。

この藪の一画だけ現在の道割りと異なった形状をしており、興味が引かれてしまう。
竹藪の外は根除けの堀だと思われるがしっかり区画されている。
念のため戦後米軍が撮影した航空写真をみてみたが、この部分は茂みになっていた。
ただ、この周辺の地形を見てみたが民家の敷地を合わせても50mちょっとぐらいで、鎌倉期の方形館にはちょっと及ばない。
しかし、この北西には畠山重忠の居館と南に家臣本田ニ郎親恒の館がある事を踏まえると、重忠の郎党が居住していたのだろうか?
でも気になるのは「中居」という名称。
大抵はその土地の領主の居館に使われる名称であるので、畠山氏の居館に使われていれば納得いくのだが・・・
実際に当時の畠山氏の居館が明確に残っていない以上、想像でしか考えられない所はある。
そんな事で次なる場所へ移動するのであった。
- 2011/05/06(金) 13:01:49|
- 城館まがい地の事
-
-
最近は500mlのペットボトルにお茶を注ぎ持ち歩くのがブームになった。
以前は1日1缶の缶コーヒーを飲用していたのだが、最近は歳を食ってきた為かあまり美味しく感じられなくなってきた。
代わりにお茶葉を入れ替えたばかりの緑茶で飲むのには感動があった。
あの口の中にずっと残るお茶の渋みと味わい・・・それがたまらなく好きになった。
そんな事で少々お湯に近い薄さのお茶であるが、飲みながらネットしている。
- 2011/05/05(木) 13:01:08|
- その他の事
-
-
今回、旧大里町のまがい地を巡るたびに出かけてみた。
でも出かけてみると・・・立ち寄りたい所が出てくるのがミステリー
さて今回は数年ぶりに訪れた嵐山町の大蔵館。

ちっと草が生えてきているが、程ほどで良さそう。

前回は大蔵神社付近しか歩かなかったので、館跡推定部もしっかり回る。
いやはや、これだけ宅地化されていてもこの土塁は嬉しいものだ。

そのままグルグルっと外周を回ってみると・・・
大蔵館の西側はいい!!
耕地の向こうにあの土塁を残した遺構があるかと思うと、かなりワクワクする。
畑の道端で何度も写真を撮ってしまう。

その大蔵館西側に来て気付いた事。
西方の小倉城(写真中央の低山)が丸見え。
ここならバッチリ狼煙を上げても見える。
改めて中世期の城館跡の所在地は無駄がないのだなっと感じた。
その後菅谷城の博物館へ立ち寄った。
節電の為か重忠ロボットが死んでたのが非常に残念だ。
かくして旧大里町に行く前に寄り道をしていくのであった。
- 2011/05/04(水) 21:44:21|
- 城館探訪の事(埼玉県)
-
-
次のページ