仕事中、突然頭が痛くなり、更に呼吸がし辛くなったり、「これは・・・熱中症!?」と我が身に危機感を持ってしまった。
その部屋の温度は40℃・・・もう平熱以上の室温なんでグッタリしてしまったのだった。
「仕事より身の安全を」と思い、部屋を出て涼しい所で5分間いたら、体調が戻ってきた。
身体もクールダウンさせるべく冷たい飲み物もグビグビ飲み、やっと頭が痛いのが治った。
勤め先は例え熱中症で倒れて救急車で運ばれても、職場改善なんてしない所なんで熱中症になるだけ損。
その後なんとか仕事を追いつけて、室温も下がってきてフィニッシュ。
仕事が終わったらなんだか調子いいので、自宅の周りを軽くランニングしてきた。
最近は身体をよく使っているので、眠りが深くて助かる。
おかげで短い時間なのだがじっくりと寝れるので、疲れもそんなに残らないのがいい。
山城シーズン到来までに、今より体力を身につけて楽しい城館探訪をしたいものだ。
スポンサーサイト
- 2011/06/29(水) 05:08:00|
- その他の事
-
-
久々にサイト更新した。新たに志木市の城館リストである。
最初はあまり大した事が分からないだろうと侮ってしまっていたが、調べれば調べるほど面白い歴史があり、延々と更新作業をしてしまったのであった。
個人的に城館跡の遺構(がなくても伝承)があれば城館跡とみなし、地名は「まがい地」コーナーへ。
今更に面白くさせられているのが朝霞市。
こちらも資料の充実度があり、読めば読むほどはまる。
たとえ根も葉もない噂だろうが、城館跡という伝承のある場所は探訪してみて調べたいものである。
ただ・・・仕事で暑い環境で仕事し、更に休日になると曇りか雨になっている今の時期はちょっと動く気になれない。
梅雨明けするかしないかあたりでガンガン訪問して、遺構をどんどん見てみたいものである。
でも今日は眠いのでこれにて。
- 2011/06/27(月) 21:10:49|
- このサイトについての事
-
-
ここの所猛暑日が続き、当方の通勤している職場はサウナ状態になった。
温度計を見ると場所によっては45℃・・・本当にサウナ状態なのだが、服を着ているから汗がにおってきそうだ。
今年も熱中症にならずに夏を越せますように・・・。
- 2011/06/24(金) 06:09:18|
- その他の事
-
-
元花園町小前田には「西ノ皆戸」と呼ばれる小字がある。
「皆戸」とは「垣戸」と読みが同じで、この垣戸という言葉もたまに武士の居館の名称として使われる。
この皆戸の前に「西」と付いている事からも「西にある垣戸(屋敷)」という意味にも受け取れる。
そもそも「西」とは何に対して西なのか?鉢形城の軍制で荒川衆と呼ばれる小武士団がいる。
『花園村誌」によれば花園の荒川地区に荒川衆が居たとされ、川端と只沢の二ヶ所を中心に居住していたようである。
となれば大字を跨いでしまっているが只沢の西に位置する当「西ノ皆戸」が荒川衆の屋敷の一つだったかも知れないという可能性が出てくる。
では早速「西ノ皆戸」を訪れてみる。

手掛かりが無いので、最初に観音堂のあるところへやってきた。
一見静かな公園になっており、奥にはその観音堂がある。

見るとここは初めて花園村が出来たときに、その村役場となった所のようだ。
こういう所にも近代の歴史が隠れている。

しかもゴージャスに石碑付き。
今や深谷市の一部となってこれから先「花園町」の名前は人々から忘れ去られようとしている。
個人的には合併した後もこれまでの町名を使って行きたいものである。
(故に当サイトは平成の大合併以前の市町村図にこだわっている)

さてさて、肝心の遺構はというと・・・それらしき場所が見当たらない。
もしかすると道路脇の水路がかっての堀なのかも知れないが、その確立は低そうだ。
中世期の歴史は閑静な宅地によって静かに埋没していくのを感じる。

道を歩いていると多くの猫さんたちにめぐり合える。
殆どの猫さんは近づくと逃げるが、この位望遠にして撮影すれば実にのんびりしている。
まがい地めぐりだからこそ、地域の道をのんびり散歩できるのかも知れない。
結論、遺構はよく分からず。
って事で次の場所に移動する。
続きを読む
- 2011/06/23(木) 06:01:17|
- 城館まがい地の事
-
-
御前田氏とも書く、武蔵七党猪俣党に属する武士であり、元花園町の小前田を拠点としていた事からその姓となっている。
以前この小前田氏の館を探そうとしたが、区画整理などをされており途中で挫折した事があった。
今日は『花園の今昔』という有力資料を持ち合わせているので、それを元に訪ねる事にした。

小前田氏の館があった場所を遠くより見る。
区画整理というとその後建物が建ち並ぶ光景が目に浮かんでしまうが、今回は農地という事で喪失したのだろうか?
是非とも土塁のあった場所は見ておきたい。

今回捜索のポイントとしたのはこの水路。
『花園の今昔』に掲載されている図にもこの水路は書かれており、現在の地図と照らし合わせて場所を測定する。
ポイントはこの水路が角度を変える部分があり、そこを元に場所の判別をする。
結果、土塁のあった場所は現在一戸建ての民家になっている事が分かった。
こちらは写真を載せないが、しっかり土塁あった場所だけはマークしておいた。
県内に残されている城館遺構が改めて急速に失われつつあるのを実感するに至った。
いち早く遺構を発見し、失われる前にその目で見ておきたい所である。
続きを読む
- 2011/06/22(水) 05:38:33|
- 城館探訪の事(埼玉県)
-
-
元花園町武蔵野地区に「字竹ノ内」という地名がある。
竹が周囲を囲っていた地という意味でもあるが、「舘ノ内」にも通じる事もあるため中世城館探訪としては見逃す事ができない地名の一つ。
館の周囲を竹で囲っている事も名前の由来になっている場合がある。
さて、その竹ノ内だが・・・

・・・。
思い切り農地及び鉄道敷地になっていた。
それにしてもこの辺りは周りが広々としていて好きだが、城館遺構がありそうに見えないが残念だ。

反対側も広々していてその辺りは気分がいい。
中世期の居館であればその地域でも人が住むのに適した地形であるゆえに、現在でもお住まいの方がいる事が多い(特に低地にその傾向が見られる)
ここ位小高い台地だと水害の危険は無いが、代わりに水の確保が苦労された事だろう。
西には飯塚氏館があるのでいくらかは小川が流れていたとは思うが、街道筋から外れて周囲は農地以外何も無いため館を築くのに向かない地形であったと思われる。

八高線のディーゼル車が広々とした櫛引台地を駆け抜けていく。
中世城館としての収穫はなかったが、こんな風景を見ることができたのは良かった。
続きを読む
- 2011/06/21(火) 12:18:44|
- 城館まがい地の事
-
-
数年ぶりに元花園町の「飯塚氏館」を訪れてみたくなったので、訪れてみた。
もしかすると数年前の場所が違うかも知れなかったからである。
今回は資料として持参した『花園の今昔』に掲載されている図面には、空堀が幾つも掲載されている。

こちらが数年前、間違って飯塚氏館と思い込んでいた場所の遠景。
これを撮影した当初は城館探訪を始めたばかりで、見る目が養われていなかったからのう。
実はこの写真の場所の北が館跡の場所であった。

この緩やかな尾根上に飯塚氏館があったとの事。
早速空堀の跡を探してみると・・・

畑の向こう側にみえるアレは・・・土塁か?
にしても結構大きな土塁が残っているように見受けられる。

先ほどの土塁に近づいてみた所、どうやら塚であったようだ。
塚の上には石祠が祭られており、土塁の跡というのは言えそうである。

飯塚氏館の西側を走る旧道。
道が切り通しになっているようにも見えてしまう。
実はこの後「空堀」を見つけたのだが、何故か写真が残っていなかった。
デジカメが故障したか?あるいは空堀のある嬉しさで撮影し忘れたか?
どちらかといえば後者のような気がしてならない。
そんな事で今回から元花園町の城館跡および小字からなるまがい地巡りに出発するのであった。
続きを読む
- 2011/06/20(月) 02:15:39|
- 城館探訪の事(埼玉県)
-
-
埼玉県比企郡嵐山町の吉田地区には、もう一つ気になる地名がある。
それは「字馬場(ばんば)」である。
馬場とは中世期の城館跡を探訪されている方ならご存知の通り、中世の武士たちが馬に乗って調練した場所に名づけられる場所である。
字馬場より東に400mには中世城館跡である滑川町の「泉福寺館」が所在しており、そちらの馬場である可能性も・・・なくはない。
ではその現地に行ってみよう。

字馬場の地形は西が丘陵で、東は滑川が作る低地になる。
そんな滑川を見渡せるような場所にちょっと広い空き地があったりもする。
その他グルグルと回ってみたが、目ぼしい物は当然ない。
ならばこの丘の上にある宗心寺を訪ねて見る事にした。

坂を登っている途中で立派な墓石のある墓地を見つけた。
みればこれから向かおうと思っていた宗心寺の開基である折井氏・田中氏の墓所だとか。
『嵐山町誌(実は二冊あって、その内の昭和58年版)』によれば、折居市左衛門が比企郡吉田村に4百石の知行を得ていた事が分かった。
旗本であれば知行された土地の中で、最も江戸に近い領地に屋敷を構える傾向があるようだ。
(江戸に出向するのに近い方が便利だからだろう)
折井氏の領地と石高はここ吉田村の他に、児玉郡西富田村二六〇・四方田村一四〇・山王堂村五四(以上現本庄市)・大里郡春野原村一二五(現熊谷市樋春)・男衾郡千代村七五(現熊谷市)・常陸国真壁郡倉持村一四五(現筑西市)となっている。
もし在地していれば江戸に近い立地条件や広い領地から見て、この吉田に居た可能性は高いだろう。

何気に宗心寺の周囲の道路なのだが、クランクしているのが気になってしまう。
ここまで登ってくると結構見晴らしは良い。

寺の近くには謎の墓石が・・・と思ったら墓石ではなく何かの碑のようだ。
寛政年間に作られたようだが・・・何らかの目印なのであろうか?
っという感じで調査をしていたが、急な眠気が襲ってきたので今回はこれまで。
嵐山もまだ調査をしていないところが多いので、早期に再訪問したいものである。
続きを読む
- 2011/06/19(日) 04:40:34|
- 城館まがい地の事
-
-
埼玉県比企郡嵐山町の吉田地区にもとても興味を惹かれる「字陣屋東」なる小字が存在する。
陣屋・・・陣場同様に中世期では合戦時に軍隊を収容する営舎を指していたが、近世になり大名の住む城郭に満たない役人の詰め所を指す言葉になっている。
今回の吉田の陣屋がどちらかはよく分からないが、末端に「東」と付いている以上陣屋の東側を指す地名と思われる。
という事は西隣りの小字はっというと「字西之谷」であり、その中間に陣屋があったと見るべきか?

目の前にある丘(写真だと森に見える)が目指す字陣屋東である。
田んぼを隔てた北にはかって甲斐の国への街道の名残と言われる現県道11号線が走っている。
そういう意味で見ると先の陣屋の定義からすると、戦中の陣所と見るのが自然か?

字陣屋東の中心を車一台分の車道が南北に貫通している。
さっきの遠景を見てもこの道路の東側の方が陣を構えるのに相応しくも思えるので調査してみる。

この辺りの民家の一部はこの丘陵上に建てられており、特に写真の切り株のある所が土塁に見えてしょうがない。
それよりこの丘陵の上を調べてみる必要があるな。

さっきの土塁に見える高まりより高い所から見てみると・・・やはり土塁に見えてしまう。
故意にこういう形状にしているのか?あるいは本当に陣屋の跡地を利用して家を建てたのか?
とても興味深い。

丘の上は藪かと思いきや、数軒の墓地になっていた。
結構上の方は削平されており、墓地造成によるものかと思えるが、同様の墓地を見てもここまで削平されているところはそんなにない。
やはりここには何かあったのだろうか?

丘を東西に跨ぐ里道を撮影してみた。これだけ見ると堀にしか見えない。
でもこの里道もここまで掘り下げているのが気にはなる。

先の切通し状の里道の南は、これまた削平された農地。
確かに農地なら削平されていても不自然ではないが・・・全体的に丘に手が加わったような気してしまうのであった。

お墓越しになってしまったが、丘から麓を見下ろしてみた。
向こうの民家の高さを基準にすれば、3~4階ぐらいの高さはあるだろうか?
場所としても先の甲斐へ続く街道が北を走っており、さらに北に2kmぐらいには元江南町の塩館や常安寺館があり、もしここが陣屋であったとしたらどんな関連があったのか興味が沸いてくる。
そんな事で次の場所へ移動するのであった。
続きを読む
- 2011/06/18(土) 05:15:02|
- 城館まがい地の事
-
-
この所プライベートに忙しくてブログが途切れてしまった。
って事で以前のまがい地めぐりの続きを・・・
ここから埼玉県比企郡嵐山町のまがい地巡りである。
最初に訪れたのは嵐山町の最北である古里地区にある「字中内手」から。
古里地区のほぼ中央に「兵執(へとり)神社」があり、その辺りが字中内手である。

初夏の日差しの照らされる中、ちょっと小高い所にある兵執神社へ訪れた。
この神社、名前がなんとなく軍隊を思わせる名前なのが気になるが・・・早速境内へ。

境内に入ってちょっと振り返った所。
丘の南斜面に位置している為、南方の眺望にやや優れる。
このまったり具合がなんとも癒される。

兵執神社本殿が奥にある。
緩やかな斜面ではあるが、この神社自体はよく削平されている。
神社だとこの位は整備されている物なのかも。
一応お賽銭を入れて安全な城館探訪を祈願する。

でもこういった削平地を見ただけで城館跡を連想してしまう辺り、自分は立派な生活城館病。
しかし、小字・立地条件とくれば、そういう視線が強くなってしまうもの。

兵執神社のある丘の頂上は何故か運動場になっていた。
人っ子一人いない運動場、かっての地形が失われてしまっていて、もはやかっての姿を思い浮かべるより他はない状態。

ここからは番外編。
中内手より南の集落は「字内手」となっているが、館跡を思わせる地形は見られなかった。
代わりに消防貯水庫にかっての村名「菅谷村」と書いてあるのが気になった。
幾ら本多静六博士の命名である「武蔵嵐山」とはいえ、かってからの地名である「菅谷」も大切にして欲しい所。
かくして次なる場所に移動するのであった。
続きを読む
- 2011/06/17(金) 04:11:57|
- 城館まがい地の事
-
-
最近、雨の降ってない夜にご近所をマラソンするようになった。
以前もこんな感じでやっていたのだが、また三日坊主になりそうな予感がある。
でも、気分がムチャクチャした時などにバテバテになるまで走るのはいい気分転換になる。
人によってはお酒を入れる人もいるが、お酒に頼っても解決に繋がらない印象が強い。
その分だけ走れば、後に城館探訪する時の基礎体力増強に繋がるのでかなり有益。
犬に喚かれるのは城館探訪にて慣れているが、夜に鳴かれるのはちょっと困る。
確かに夜走ってる人間がいれば不審者に違いないが、もう少し静かにしていて欲しい所。
- 2011/06/13(月) 07:08:42|
- その他の事
-
-
西古里という地名は大里郡寄居町と比企郡小川町の両方にあるが、今回は寄居町の方の西古里である。

寄居町西古里の矢弓神社付近が屋敷附という小字になっているのだが・・・
さて、何処が屋敷だったのかが焦点になりそうだ。

一応屋敷林を所有するこの旧家あたりが怪しいと思い、ちょっと周りを歩かせていただいた。
すると・・・

む?これは堀?
いや、おそらくは右側の畑が高くなっているだけなのかも知れない。

この辺りは轟さんのお墓が多く、墓石を見ても高級感漂う仕様になっている。
そういえば先の「陳場」付近でも同じ読みの舎利弗(とどろき)さんのお墓がたくさんあった。
もしやこの辺りはこの轟さん一族が支配していた土地だったのか?
もうちょっとこの付近の歴史などを調べてみる必要があるだろう。
念のため「舎利弗」さんをネット検索したら、圧倒的に釈迦の弟子である舎利弗(しゃりほつ)が出る。
かくして寄居町の謎の小字巡りツアーはこれにて一旦終了。
次からは嵐山町の謎の小字をちょっとだけ回ってみる。
続きを読む
- 2011/06/12(日) 05:36:07|
- 城館まがい地の事
-
-
今日はとってもペヤングが食べたくなったので、仕事帰りに買ってしまった。
ペヤングというのは群馬県に本社を持つ
「まるか食品(株)」の製品名である。
自分の勤めている職場ではペヤング派とUFO派の二手に分かれており、
ペヤングが数ヶ月に一度食べたくなる自分はと、当然ながらペヤング派である。
このヤキソバとは違ったゴムマリみたいな触感は、ヤキソバとは違う独自の食文化を持っている。
流石に毎日は食べたくないのだが、数ヶ月に一回、しかも真夜中に食べたくなる不思議な食べ物なのである。
今日は更にチューハイまで購入し、ちょっと贅沢な家での一時を過ごすのであった。
- 2011/06/11(土) 22:48:07|
- その他の事
-
-
ついに気になってしょうがなかった「陳場」へ訪れることとなった。
寄居町の小字の調査をしている時、「
陳場」なる地名があり「明らかに
陣場の間違いだろう」と思っていたので、これが誤爆で終わるかどうか?楽しみである。

陳場と呼ばれるところは比較的小高い丘になっていた。
北側は民家と畑になっているが、南半分は雑木林となっている。

陳場付近からも高見城が望める環境で、距離も直線距離にして大体1.8km程ある。

畑の脇に雑木林の中の墓地への道があるので、そこを利用して雑木林へ移動してみる。
今回は流石に藪の可能性もあるので藪突撃装備をしての侵入である。

一応平たく感じるが・・・自然地形とも言えなくもない。
周囲を回れるだけ回ってみよう。

西側はかっての道であったようで、多少窪みがある程度で堀とまでいかない浅さである。
ただこれより西は徐々に地形が落ちて、脇の農業用のため池に直行する。
流石にため池に落ちては危ないのでこちらはこの辺りで引き返す事に。

む!?なにやら不自然な窪みを発見。
少々浅いものの、自然地形にしては手のかかったような窪みである。
窪みはおおよそ2mほどの長さで、意味もなく唐突に掘られているような感じである。
うーん、これだけじゃ分からないので、陳場の南東には細く伸びる尾根があるのでそこへ行ってみる。

更に長い溝が登場した。
深さはおおよそ50cmほどだが、何故か尾根を斜めに区切っているように見える。

里道か?あるいは堀切か?
でも堀切にしては浅いのでなんとも判断の難しい場所である。
なお、ここより先に行ってみたが、竹薮が激しくなってきたので撤収した。
我がら武蔵直登の猛者の皆様なら突撃しそうだが、ヘタレな自分はそのまま引き返してしまったのだった。
藪の中ではあるが、100m東を関越自動車道が走っている為、車の走行音が絶えず響き賑やかである。

そのまま丘の東をグルッと回ると竹の群生している場所へ来る。
竹の生えてる所は竹が生え広がるのを防ぐための「根除け堀」の可能性もある為、城館遺構と判断するのは早計である事が多い。
もう農地に近いことからもこれは道であった可能性もある。
なお、肝心の尾根続きは民家や農地になっている為、現時点での地形では判断が難しいと思われる。

陳場を南側より望む。
両脇を谷津に囲まれた地形で、要害の地に見えてしまう。
なお、地元の方に陳場について訪ねた所、読みは「じんば」であるという。
やはり登録する際に誤って陳と書いてしまった可能性が充分高まったのであった。
色々と謎の残る陳場、ここは色んな方に来てもらい、あの溝の謎を考察して貰いたいものである。
陳場の場所 →
地図へ
かくして次なるまがい地へ向かうのであった。
続きを読む
- 2011/06/10(金) 05:15:41|
- 城館まがい地の事
-
-
・・・周ってきた。
けど帰った直後に眠くて寝てしまった。
大井町の方は台地ゆえに少々中世期の歴史が乏しかったのが残念だった。
代わりに富士見市の方は調べれば調べる程、味のある地域だと分かった。
やはり河川に近い所でないと、中世の営みはできないという事か。
今回、周ってきた内容はまた後日。
そういえば富士見市の多門氏館、発掘調査していた。

今回は調査している方々が忙しそうにされていたのでよく聞けなかったが、開発による発掘調査のようである。
前回(いつだったか忘れたが)来た時には鬱蒼と茂っていた場所だったので踏査できなかったが、見事に丸裸にされて調査をされている。

これらの遺構が喪失する前に、速やかにご見学される事をお勧めいたします。
それにしてもこういった遺構が失われていく様をみるのは、いつ見ても悲しくなってくるものだ。
続きを読む
- 2011/06/09(木) 04:14:47|
- 城館探訪の事(埼玉県)
-
-
埼玉県大里郡寄居町の今市地区には過去の調査で城館跡に直結する小字は見当たらなかった。
ところがある資料を読んだ所、江戸初期に「柳沢兵部丞」なる者がこの辺りに屋敷を構えていたのでは?というのを見て気になったので行ってみた。
あくまでその資料も「推定」なので、当然無い可能性もある。
故にここは「まがい地巡り」の一環としての訪問となる。
個人的に中世城館の手掛かりが分からなかった場合、その周辺の寺や神社を訪れる事にしている。
中世期は殺るか殺られるかの時代ゆえ、心の安らぎを求めるべく神仏にすがる人々が大変多かった。
当時の武士も例外ではなく自らの館に寺や神社を設け、その神仏の加護を得ようとしていたのである。
それが時代の流れと共に居住者である武士が去り、その居住地の神社仏閣がそのまま残るという事もかなりあった。
故に大方神社や寺に行ったりすると、城館跡に関する手掛かりなどがそこにあったりするのである。
前置きが異常に長くなったが、今回の今市地区も城館跡の手掛かりがない。
故にこの地区の中心付近にある「兒泉神社」、「高蔵寺」、「延命地蔵尊」の三箇所を中心に回って見る事にする。

朝の鎌倉街道付近の様子。左に流れるのは市野川で、源流が先に訪れた牟礼地区というのをさっき知った。
写真は鎌倉方面を望んでおり、この辺りを鎌倉武士たちが駆け抜けて行ったのかと思うと感慨深いものがある。

兒泉神社の鳥居を見る。
「兒泉」という字を見ると
所沢市にある山口城の別名が「兒泉(ちごいずみ)城」なのを思い出す。
読みは分からなかったが、同じ読みなのだろうか?

鳥居をくぐり、兒泉神社境内を見渡してみる。
うーん、鎌倉街道沿いで市野川に出っ張るようにあるので立地条件良さそうだったが、屋敷として使われたような感じに思えない。

神社は周囲より一段と高くなっており(写真右側が神社)、なんとなくではあるが堀にも見えなくもないかも。
神社の境内が少々狭いのでここは城館跡ではないという印象が強かった。
では次に・・・

次に近くの高蔵寺に来たが、ここは完全に城館跡ではないと思われた。
まだ寺の歴史を記した「縁起」でもみれば別なのであろうが、地形から見て遺構らしきものはまったくない。
では次に・・・

ふと道端を歩いていたら、立派な屋敷林があったので拝見。
この中の竹林をちょっと見てみると・・・

見る人がみれば分かるが末端が少々高まって見える。
丁度この集落の中心地付近なので、屋敷の有力候補になりうる場所になった。
では道を戻って次の場所へ。

「延命地蔵尊」の本堂まで来た。
この周辺は主要道路らしく、丁度通勤時間となった為に車の往来が激しくなってきた。
お堂の前には「木造地蔵菩薩立像」の解説板があり、室町時代の作と推定している模様。
やはりこの辺りも屋敷の有力候補か?

ふと周辺を見たら埼玉県内の鎌倉街道上道を案内した看板を発見。
折角なので拝見させてもらった所、現在タイムカプセル入りされている所沢市の勝楽寺城(一般では根古屋城の方が通りが良い)が紹介されていたので驚き。
勝楽寺城も見てみたい遺構なのだが、逆に子孫に「ありのまま」の姿で残してあげられる遺構として貴重なのかも知れない。
これはこれで面白い物を拝見した。

先ほどの兒泉神社に戻ってくると、目の前には小川町の高見城の勇姿が。
この城って鎌倉街道を抑えた城なんだなっと改めて思うのであった。
って事で結論がまったく出なかったが、こういうまがい地巡りも好きなのでこれで良しとする。
かくして次なるまがい地に向けて移動するのであった。
続きを読む
- 2011/06/08(水) 04:46:03|
- 城館まがい地の事
-
-
ようやく画像の容量を増やしていただけたので、まがい地めぐりの続きを書く事に。
素人同然の自分の城館まがい地巡りが皆さんの役に立てばいいなっと思う反面、見られてなかったら自分の備忘録にしようかと思案しているのであった。
さて、牟礼地区シリーズもこれが最後、「字蔵屋敷」である。
先の「字堀の内」と「字新屋敷」に比べて遺構のあった確立が低い場所ではあるが、それでも見に行く事に。

牟礼地区の信号を北にちょっと行った辺りが字蔵屋敷。
・・・確かに蔵のある家はあるが、中世期の屋敷があった雰囲気がちょっとない。
ここは更に後(東方)の丘を調べてみる手があるが、ヘタレなので今回もパス。

その傍らには謎の館「よりいトンボ自然館」なる施設が。
流石に早朝なのでやっていないが、寄居はそんなにトンボで栄えているのか?
気になってネット検索したら・・・一応運営サイトがあった。
→「
寄居町にトンボ公園を作る会」
しかも先の「寄居の尾瀬」は「男衾トンボ公園」なる名称があった事が判明。
この施設と併合してトンボと触れ合う機会を設けているようだ。

玄関にはお手製の看板が掲げてあり、
「毎週 日曜 祭日
午前十時より午後四時まで
入館無料」
とある。
当方、トンボにはあまり興味ないがご興味のある方が居られたら訪ねられてもいいかも知れない。
むむ、城館探訪からトンボ館探訪になってしまったり。
って事で牟礼地区を離れ、次なる場所へ移動するのであった。
続きを読む
- 2011/06/07(火) 04:30:39|
- 城館まがい地の事
-
-
数日前にこのブログの画像容量申請をしたのだが、未だに増量した気配がなし。
やはりまがい地で写真を乱発したのが増えなかった原因か?
もし数日増えないようなら他のブログへの移行も検討に入れないといけないかも知れない。
それにしても梅雨に入ったに関わらず良い天気になっている。
しかも暑さが夏そのものになっているなっと改めて思えた。
夏場は夏場なりの館跡巡りがあって、その夏らしい風景は自分も好きだったりする。
もし自分の休みの日に晴れていたら、平野部の館跡に再訪問するのも良いかも。
続きを読む
- 2011/06/06(月) 11:55:14|
- このサイトについての事
-
-
先日、付き合いで元吹上町にある「
埼玉県防災学習センター」に行ってきた。
なんと、そこでは震度7の揺れや風速30mの強風を体験できるという。
今回はその時の感想をちょっと書いておく事に。
地震体験コーナーは・・・あれは凄い音する。
「何もする事ができない」と書いてあったが、本当にしがみつくだけで何も出来ない。
まだ手すりの付いたゴンドラに乗っていたからともかく、一般家庭でアレが来たら確かに物が散乱すると思った。
できたらよくある椅子とか机とかを配置してその下に隠れるのもやってみたかった。
けど毎回片付けするのが大変なんで置かないのだろう。
今回のメインコーナーでもあった。
次は火災時の非難訓練のコーナー。
なにやら特殊な臭いのする煙が立ち込めた暗い部屋から、一定のルートを通ってそこから脱出するというもの。
しかも、ダミーの扉も幾つか配置しており、巧妙なトラップが仕組まれているのである。
このコーナーを脱出する際、いかに姿勢を低くして煙を吸わずに早く脱出できるかなのだが・・・
姿勢を低くした際に思わずオ●ラが出てしまいそうになり、二次災害を引き起こす所であった・・・。
実際の火災の煙とは違うらしいが、本物と想定して訓練するには良かったと思う。
次に強風体験コーナー。
よくテレビなどで映っている、傘の差せないのを体感できるコーナーである。
流石に着替えの関係から雨は無く、風速30mの強風のみの体験となった。
体から吹き飛ばされそうな物(メガネやコンタクト)を外して、いざ強風へ。
目の前の巨大扇風機(?)が音を出しながら回りはじめ、徐々に風速が上がっていく。
風速30mになると正面向かって息ができず、つい顔を伏せてしまう。
その後その模様を備え付けのモニターで見てたら、なにやらストッキングを顔に被せたみたいな表情になるのがちっと印象的であった。
そして消火訓練コーナー。
本物に偽装した消火器で、目の前のモニターに映る燃えてるヒーターを消火するというもの。
実際に使用される消火器は粉が噴出されるようだが、今回のは水が出るように出来ていた。
炎上するヒーターの画像が映し出されると「火事だぁ!!」と大声を張り上げ、模擬消火器を噴出。
火は燃えてる根元に噴霧しないと、すぐ15秒経って消火器を使い切ってしまうという。
団体でやる消火訓練って大概代表が消火器持ってやって終わりだが、ここでは参加者全員が出来たので良かったと思う。
消火器の黄色い安全ピンが思ったより軽く引けたのが印象的であった。
かくして2階の展示物を見たり、防災に関する早押しゲームをしたりするコーナーをめぐって終了。
個人的には地震体験コーナーが入場料無料で体感できるのは大きいと思った。
さすが高い税金を取っているだけの事はあるな。
一通り回ってしまうと1時間ぐらいであったが、なかなか良い体験をさせてもらえたので何よりであった。
- 2011/06/05(日) 20:25:23|
- お付き合いの事
-
-
埼玉県大里郡寄居町牟礼の字堀の内から歩いてちょっとの所に「新屋敷」という小字がある。
この辺りは他の中世城館資料等ではまったく認識の無い場所なのだが、「堀の内」に続き「新屋敷」とちょっと中世城館跡にゆかりのある小字が残っているのが印象的である。
先の堀の内でも書いた通り、この牟礼地区は高見城から鉢形城への街道の沿線上にあったと思われ、個人的にはちょっと期待している地区でもあるのである。

牟礼地区で信号のある交差点を鉢形城方面へ歩いていくと、なにやら湿地帯が?
一応地図にも緑地として表示されているが、特に名前がない。
仕方ないのでここを仮名「寄居の尾瀬」と呼んで置くことに。

早朝の「寄居の尾瀬」はいたって静か。
こうして朝日の方角を向いていると、とても埼玉県寄居町にいるとは思えない光景が広がっている。
近くに民家があるが、とても良い自然が残されていると思った。
さて、この「寄居の尾瀬」の脇を通過し、目指す字新屋敷はこの奥である。

先へ進んで見ると途中で未舗装の道になる。
調べた所ではこの辺りから字新屋敷」なのであるが・・・

ピキーン!!
ふと北側の斜面を見たときに感じ取った、この上に平場がある。
本当は民家脇から行くようだが、強引にこの斜面を直登して馳せ参じる事にした。

・・・そこにはとても美しい平場があった。
この削平具合をみれば明らかに人の手によって平場が作られた物である。
でも・・・妙に草が刈られて綺麗になっているのが気になる所ではあるが、恐らく昔の住居があったのだろう。

しかもそこからは山間からうっすらと高見城と思われる山まで見える。(写真中央付近)
一応地図で調べてみたら、確かに高見城のある四ツ山であった。
これはわざわざ見える位置を削平したものか?あるいは偶然か?
発掘調査でもすれば分かるのかも知れないが、現時点では分からない。

足元には近年まで使われていたと思われる井戸のような跡まで残っていた。
どう見ても下水道などで使用されるコンクリート製の物で、正確には井戸であるかも分からない。
でもこの辺りは湧水があり、生活するには申し分ない条件を備えているようだった。
ここまで書いて残念ながらブログの写真容量が満タンになってしまったようだ。
一応容量増量を申請してみるが・・・こんなブログに増やしてもらえるか謎だったりする。
なお、先ほどの平場の上にも緩やかながらも何かあったような平場があり、それを囲むように溝があった。
字新屋敷の名は中世の城館跡なのか?
これをご覧になって興味をもった方に見ていただきたい所だったりする。
続きを読む
- 2011/06/04(土) 05:39:51|
- 城館まがい地の事
-
-
以前寄居町の南部を調査してなかったので、今回そちらの訪問をする事にした。
ついでなので嵐山町と滑川町の調査もしたいなっと思って日の出前に家を出た。
最初に訪れたのは埼玉県大里郡寄居町大字牟礼である。
ここは地図を見ると中世城郭である鉢形城と高見(四ツ山)城の中間に位置する場所である。
特に高見城からは近距離で、何かあったんじゃないかと気になっていたので、今回の訪問となった。

牟礼字堀の内付近の様子。
確かに旧家があり昔から人の住んでいた様子を思わせる。
では早速グルッと県道沿いに回ってみる。

いくつかの沢が合流するこの辺り・・・これを見たからには行かない訳にはいかない。
といつもの土砂災害危険警告板(名称知らないので適当)があるので沢の名前を見てみる事に。

その名も「牟礼沢4」
通称4号なのか。
恐らく地元でも名前の無かった沢なのかも知れない。
一応牟礼沢が幾つも入り組んでいるその辺りへ。

おおお、いいな。
これだけ見せられたら「城」といわれてもちょっと説得力あるかも。
ちょっと草が生い茂る季節なので、その先に行くのは控えた。
うーん、最近衰えたもんだ。

沢の流れによって削られたのか?人の手によって削られたのか?
堀の内という地名は沢に囲まれている事によって名づけられた地名なのか?
この辺りの聞き込みをすれば良かったのかも知れないが、早朝なので控えた。
寝起きというのもあって判断力が鈍い。

もう一つ館跡があったんじゃないかと思わせる地形が道路の形状に。
写真左の県道がショートカットでいるのに対し、旧道は堀の内(写真の右側)に突き当たった後、堀の内の周囲を回るようにしてこちらに通っている。
宅地や農地になっていて痕跡すら残していない堀の内、でもなんとなくこういう所で名残を見せているのは我が気のせいであろうか?
堀の内 雰囲気だけ残る 初夏の朝
なんだか寝ぼけているので変な俳句を読んで今回終了。
(一応季語も入っていたのは自分でも驚き)
続きを読む
- 2011/06/03(金) 06:14:47|
- 城館まがい地の事
-
-
小川町の中をグルグルと巡っている内にかなり日が傾いてきてしまった。
今回最後の訪問となったのが奈良梨館。
ここも良い遺構が残るというが・・・では早速探しに行くことに。

いつも通っている県道。
でも何故かここに遺構があると知りつつ、通過してしまっていた。
今回はしっかり拝見していく。

ピクン!!!
我が「城館レーダー」がこの辺りで反応を示した(笑)
こういう藪の中こそ遺構ありといういつもの習性で見た所、やはり土塁があった。
でも悲しい事に写真写りが悪い為この迫力をお見せできないのが至極残念。

更に堀が土塁から少し離れた所にあったので撮影した・・・
だめだ、全然堀の様子が分からない・・・。
いつか地形だけ撮影してくれる城館探訪者向けのカメラが開発される事を願ってしまう。
流石に今からこの竹薮に突撃するのは萎えるので、道路の反対側へ。

西の方が少し高まっており、そこへ入ると立派な削平地がある。
土塁に見える所は高台になっているのを見ると、この辺りも立派な遺構か?

コレだけ見ると立派な城館遺構に見えてしまうから恐ろしい。
でも今まで存在を知っていながら訪問しなかったのが後悔するほど良い遺構があって良かった。
その後かなり眠かったので、興奮した奈良梨陣屋の堀の脇で車を停めて昼寝させてもらった。
ちっと目が醒めたら、他の陣屋訪問者の方がちょっと邪魔そうにされていた。
それに気付き速攻でその場を後にしたのだった。
(基本人見知り激しい性格?なので地元の方への聞き込み以外では人との接触は避けている)
その時の方、探訪の邪魔をしてごめんなさい。
かくして小川町の平野部を現在把握できる限り歩いて見たが・・・
家に帰ってみて「中爪遺跡」を訪問し忘れてしまっていた。
こうしてこの日の城館探訪を終えたのだった。
- 2011/06/02(木) 05:33:45|
- 城館探訪の事(埼玉県)
-
-
前々から側の県道を軍用道として利用させてもらいながら、今だに訪れていなかった奈良梨陣屋へ。
噂では良い遺構が残ると言うが・・・楽しみだ。

現在の八和田神社境内が、かっての陣屋跡地であるという。
奈良梨交差点の北にはこの神社への参道が備えられており、この辺りの中心地であったかのような趣が残る。

神社の裏側にはご立派な遺構が残されており、それを見ただけで喜びが。
最近まがい地巡りに転向しつつも、明確な城館遺構にはそれなりの喜びを感じるのだと自認できた。

うわ~、これって一番大好きな「方形館」を色濃く残している!!
やばい・・・今まで訪問したことが無かったのを悔やむ位に好みだ・・・ここは。

となれば方形館がもっとも美しく見えるアングルへ。
んん~~、この土塁の角と堀のコンビネーションが更なる興奮へとかき立てるようだ。
個人的にはこの角度は好きだ。
なお、写真の看板は奈良梨陣屋の解説板。

更に土塁は神社の北をグルっと周って西の角辺りで喪失している。
おそらく西側の民家側に土塁が延びていたのだろうが、喪失したのだろう。
でもいい、この一部が見えるだけで当時の面影を偲ぶ事が出来てとても幸せだったりするのだから。
ただ・・・これ以上破壊されない事だけは願う。
色々と周ってきたが、今回ではここが(個人的に)ナンバー1に輝いてしまった。
やはり鎌倉街道沿いの遺構は良い。
- 2011/06/01(水) 05:18:59|
- 城館探訪の事(埼玉県)
-
-