一色氏館推定所在地
埼玉県幸手市に住んだ幸手一色氏の故郷、というか一色氏一族の故郷。
足利泰氏尾張守に就任した時、吉良庄の地頭桜井判官俊光の娘との間に子をもうけた。
その子が長じて一色公深となったのが始まりであるという。
元応元年(1319)に公深は長男頼行に吉良庄の地頭職を譲って、次男範氏を伴って埼玉の幸手の地に去っていったのであった。
なんか最後がダジャレになってしまったが、今回の探訪で唯一徳川家康に関係ない埼玉移住の三河武士である。

昨日、西尾市の図書館で資料漁りしていて初めてここ安休寺が一色氏館の有力候補地であると知った。
それで行こうとしたのだが・・・道が狭い、慣れない車なので尚更圧迫感を受けたりも。
狭い路地を抜けたらそこには安休寺の山門があった。
寺って全体的にどうも人を寄せ付けない雰囲気がある、神社は参拝で平然と入っていけるのに。

いきなり入るのも気が引けたのでグルグル廻りを回っていたら・・・碑を見つけた。
思い切り旧字で「一色氏発祥の地」と書かれている。
これを見てようやく一色氏館候補地に到着したと実感できた。

周囲は宅地になっている上、一色氏が実質五十年ぐらいしか住んでいなかった為か、有力な遺構はないようだ。
でも石碑の置いてある空き地の一部にはお堂付の土盛りがあり、なんとなくそれらしさはある。
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- 2011/09/29(木) 05:20:59|
- 城館探訪の事(愛知県)
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寺部城所在地
海沿いをしばらく走って再び西尾市に戻ってきた。
正確に言えばつい最近まで幡豆(はず)町だった所で静かな海辺の町である。
次に目指すところは当サイトとリンクしている「城郭写真記録」の成田様お勧めの城、寺部城である。

寺部城も少し離れた所から案内標識がおかれている。
なんて中世城館跡にやさしい環境なのでしょう、方向音痴な私でも無事駐車場までたどり着く事ができました。

しかもトイレのご心配までしていただいて・・・恐縮でございます。
先ほど用を済ませていたので、今回は大丈夫。

城内は遊歩道が整備されていて・・・中世の城を歩いている気がしなくなるかも。
まぁ、この藪のひどい季節にはとってもありがたい設備ではある。

城内を歩いている内に堀底道を歩いたり、堀切が現れたりと色々と楽しい展開が待っていた。
ただ、歩道になっている所以外は私有地なので立ち入れない所が残念な所か。
でもこの季節は城全てくまなく歩く気がしないので、これで充分。

夏場にも関わらずこんなクッキリと腰曲輪が拝めるなんて・・・
この城は全体的に草が少なく、日頃から手入れをされているようだ。
腰曲輪の見本写真に使いたいぐらい綺麗である。

本曲輪には解説および地図がある。
楽々丘城を堪能させていただいた上、丁寧な解説付きとは至れり尽くせりな状態。
全体的に視界を遮る草木が少ないので、中世城館初心者にも優しい。
さすがお勧めの城だけの事はある。

何よりご褒美はこの景色であろうか。
南の海が本曲輪や二の曲輪から眺める事ができる。
ただ、写真技術が無いためロクな写真が撮れてないのがネックか。

城を後にし、空を見上げたら・・・なんか晴れてきた。
やはり青空の下城館探訪するのがいい。
そんな事で次なる場所に移動するのであった。
- 2011/09/28(水) 05:31:37|
- 城館探訪の事(愛知県)
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形原城所在地
当初埼玉県にゆかりのある武士の館シリーズをしていたのだが、何を誤ってかこの形原城がリストに上がっていた。
松平十八家が紛らわしすぎて間違えたのであった。
うーん、折角近くを通る事だし、ついでに立ち寄ってみた。

近くまで行くと堂々と案内板が立てられているのには驚いた。
車は・・・今回も路上駐車でございます・・・。

城跡は現在古城稲荷になっているようで、草ボウボウの城館探訪にはならずに済みそうである。
しばらく案内の通り歩いていくと鳥居が見えてきた。

ご城内には何故かお稲荷さんの赤い鳥居が連続して立てられている。
これってなんかいわれがあるのか?鳥居はかなりピカピカで手入れはされているようだった。

赤い連続鳥居の曲輪から見る三河湾はちょっとイマイチだった。
しかし、城跡から海を見るのは初めての経験だったりする。
あまりにも海辺に城を築きすぎて波で喪失した城があったりするが、ここは目の前に港があるから喪失の心配は無さそうである。
また開発の波からも市指定史跡という防波堤ができているようだから心配は薄そうだ。
(それでも強引に開発されたケースは無い訳ではないが・・・)

階段を上り詰めると古城稲荷があり、そこが本曲輪であるようである。
そこにはかなり大きな石碑と解説板が配置されていて、つくづく愛知県の城は優遇されているなっという印象を受けた。
・・・実は先ほどから自分の周囲に藪蚊が徘徊していたりする。
しかもついてない事に、虫除けスプレーを切らしていたりする。
いつもなら城跡でのんびりメモ取ったりするのだが、蚊に急かされるように城から追い出されてしまったのであった。
ついでに立ち寄った城であったが、よかったなあ。
(曲輪しか遺構見れなかったが)
- 2011/09/27(火) 04:36:13|
- 城館探訪の事(愛知県)
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今日は天気が雲ってイマイチだったので、最初城館まがい地巡りしてきた。
本日のターゲットは児玉郡である。

尾根を区切る巨大な堀切・・・じゃありません。
予想するからに採石の跡だと思われる場所。
この辺りは全国でも有数の緑泥片岩の産地だっただけに近年になっても採掘された模様。
児玉郡の山はこういう場所が多い気がする。
その後もう一ヶ所行ったが、猛烈な藪で覆われていた為調査中止。
まがい地は人が踏み入れない場所だから、草木の枯れる冬場に限る。
って事で気になる場所の調査に秩父郡にちょっと足を踏み入れる。

調査の途中で観光地である宝登山(ほどさん)神社へ。
この宝登山のある長瀞町は埼玉でも有数の観光地、でも流石に連休明けの月曜日だったので人はまばら。
個人的には空いている方が好きなので丁度良い観光をさせてもらった。
その後気になる場所の付近で聞き込み調査を敢行。
都会だと「分かりません」「知りません」の一言で済まされるのだが、秩父の皆さんはこんな自分にも暖かく対応して下さるのでありがたい事。
確かに色々と有力な情報をいただいているのはいつも秩父郡の皆様からのような・・・。
それからサラリと山越えして児玉郡へ戻る。
月曜は軒並み図書館は休館日になっているので、役所や役場の税務課中心に徘徊する。
もちろんお目当ては「こ・あ・ざ」。
こちらの方の地籍図はかなり充実していて良い、お陰でこちらの小字をコンプリートできて幸せ。
ただ、上里町は地籍図閲覧だけでも150円かかった。

今度銅像シリーズしようかなっと思っていた矢先、元児玉町役場に塙 保己一(はなわ ほきいち)の像が。
中世の武士ではないので一枚しか撮らなかったが、こういう銅像がサイトの写真に飾れるだけでかなり見栄えが付く。
ちなみに塙 保己一とは江戸後期の学者で幼少に全盲の身になりながら学を極め、国内有数の学者になった凄い人。それもあってか本多静六博士も幼い時に祖父から「塙保己一の様に勉強すれば、目の見えるお前はそれ以上になれる」と激励の言葉を受けたとか。
・・・かくして役所終了の17:15までに小字の調査をなんとか終えた。
こちらは○○廓とか○○屋敷って小字が非常に多く、調査範囲がより広く拡大。
困ったような嬉しいような・・・でも自分の事だから嬉々として調査に行ってしまうのだろうな。

薄暗くなった午後5時台になって、城館調査を再開。
この辺りの田んぼが中世武士の館跡だったって資料があるのだが・・・本当か??
夕暮れ時は写真がブレやすく、どうしても美しい夜景が写せない。
三脚って必要なのか。
って事で昼寝(?)して無事帰宅。
これで明日から仕事を励める、ありがとう児玉郡。
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- 2011/09/26(月) 23:46:13|
- 研究の事
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海道・貝戸・街道・・・みんな「垣戸」に通じる地名。
ここまで「かいと」って言ってると凧のKiteを思わされてしまう。
特に急上昇調査範囲になりつつあるのが「○○貝戸」。
この貝戸の地名が付く場所は、いずれも現在宅地になっている所ばかりである。
人の住みよい地形は当然中世期にも館跡のあった可能性がある訳で、隠れた城館跡があった可能性がある。
とある山間部の地名にこの貝戸が多く所在し、山間部にあるにも関わらずいずれも斜面に人が住んでいたのは個人的に驚いている。
内手(打ち出)に比べたら攻撃的印象より防御的印象が強い。
また「○○ヶ谷戸」に比べても堂々と建物を建てていた印象が強い。
「城」と「館」の明確な区切りが無いのと同様に、屋敷地も明確な線引きはないのであろう。
でもここまで語源として共通していたという事は当時から使われていた可能性もある訳で、この辺りはどういう使い分けしていたのかも気になってくる。
それが身分階級や使用用途に準じるものであれば、その居住者の身分や用途を見分ける良い機会になるのではと思っていたり。
今は疑問符付きの貝戸。
これからそれを明らかにする資料が見つかるといいな。
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- 2011/09/25(日) 19:47:40|
- 研究の事
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竹谷城所在地
竹谷(たけのや)松平家は松平十八家の一つで、松平家清が天正十八年(1590)に今の埼玉県本庄市の雉ヶ岡城に一万石を与えられた。
宝飯郡竹谷の地は南を三河湾に面しており、山の斜面に有るため海を見下ろす事のできる住み良い場所である。
それが内陸の雉ヶ岡城に移されたというのはだいぶ環境が変ったと思える。
そんな竹谷に今回訪れてみた。

竹谷城の場所は大体分かっていたが、どの辺りにあるのかは具体的に把握していなかったので探すのにちょっと時間がかかった。
おそらくはこの丘になっている所だろうと目星をつけていたが、後日調べてみて正解だと分かってほっと一息。
この辺りの道は狭く、車を停める場所に困ったので某ショッピングセンターに停めさせてもらった。
では早速内部の状態を調べにいこう。

北側に道があったのでそれを通っていく。
一応削平された腰曲輪のような部分にたどり着いた。
比高差が10mぐらいしかないので楽々行けるようだ。

少々分かり辛いが虎口のような場所もある。

着いたそこは栗畑(?)であった。
もっとも藪か民家に比べたら調査しやすので助かる。
そんな事で周囲を調べてみたものの、地形では一番高所にあるものの、堀などの遺構は見受けられなかった。
だが、端部には僅かながら土盛(土塁?)もあるようである。

変ってこちらは南側の光景。
フェンスに囲まれているところがあり、ここは調査するのは控えた。
後でこの場所をネットで調べたら石碑もあったようだが、今回はそれを見逃していたようである。

城とは直接関係無いが道路脇に朝顔が咲いていたので記念撮影。
でも朝を過ぎても咲いているので昼顔か?
青紫の良い花を咲かせていたのでちょっと見入ってしまったのであった。
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- 2011/09/25(日) 19:03:01|
- 城館探訪の事(愛知県)
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長沢城所在地
長沢松平氏は三河国宝飯郡長沢の出で、埼玉県とは徳川家康の従兄弟の子である松平康直が武州深谷城に一万石で入城している事でゆかりがある。
では早速行ってみようとしたら・・・思い切り国道一号線で交通渋滞に巻き込まれ、予想以上に時間がかかった。

長沢城内は国道一号線が貫通してしまっており、その部分は破壊されている。
しかしながらその名残は残っており、南側に突き出た尾根を利用した城であると分かる。

破壊された尾根の一角には長沢城碑があり、今は石蓋で閉ざされた井戸もあるようだ。

移動してこちらは旧東海道。
長沢城は御殿としても使われたようで、右にある長沢小学校はその跡地に建てられたという。

長沢小学校の法面には長沢城に関する解説板があり、付属している地図には幾つかの堀に囲まれた長沢城の姿が描かれている。

もっとも城らしい面影を残す場所はこのお堂の辺りになる。
お堂の背後には国道1号線が走っており、風景に似合わず車の走行音が絶えず聞こえてくる。

この辺りには手を加えられたような跡が残されており、城の一角として使われた痕跡が残されている。
もうちょっと調べたかったが季節柄で蚊が大量にまとわりついてきたので、この場は撤退。

最後にコンクリート橋なのに名前が「土橋」。
ツッコミが入りそうな名前だが、以前は本当に土橋だったのかも知れない。
近くには御殿の名残を残す「御殿橋」も架かっている。
- 2011/09/24(土) 07:00:56|
- 城館探訪の事(愛知県)
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牛久保城所在地
三河国牛久保は後に上州伊勢崎に藩を開いた稲垣若狭守長茂(埼玉県の資料では長重って書かれる事が多いような)の生まれ故郷で、埼玉県旧江南町の須賀広に領地と陣屋を持っていた事にちなんで探訪した。

牛久保城に程近いJR牛久保駅に来た、駅舎は一昔前の作りのようで鉄道ファンにはこういうのが好まれるのかもしれない。
夏休みの早朝ゆえか誰も居なかったのが印象的だった。

ここに来るまで忘れていたが、ここは甲斐武田氏に仕えた山本勘助の生まれ故郷であった。
数年前に大河ドラマの主人公になっただけに、当時は多くの人がきた・・・かも知れない。
では牛久保城へ向かう。

牛久保駅を出て右に線路沿いに歩いていくと踏切があり、その踏切を渡ると牛久保城。
うーん、徒歩数分の立地条件なので訪問のしやすさは良いかも知れないが・・・遺構の保存状態は良くなさそうだ。

線路と病院に挟まれた緑地に牛久保城を示す碑が建てられている。
遺構を示すような物はこれぐらいのようで、その殆どが市街地になって喪失しているようだ。

来たついでだったので、山本勘助の墓へお参りしてきた。
牛久保城から程近い長谷寺(ちょうこくじ)の境内にあり、道路にも表示されているので歩いていれば行き易い。
そんな近距離なのに車で移動したために、今回は駐車場が時間が早くて開いてなくて、車を停める場所に困った。
結局近くのコンビニに朝食を買いがてら、車を停めさせてもらったのだった。
- 2011/09/23(金) 08:10:19|
- 城館探訪の事(愛知県)
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今日はさいたま市西部の城館巡りと資料を集めて回っていた。

元浦和市の真鳥山城の範囲が計画道路設置の為、発掘調査をしているようだった。
今日が祝日の為か人が居なかったが、平日辺りに訪れると人が居るかも知れない。
今回タップリと資料が手に入ったので、これからゆっくりと読みふける予定であった。
でも眠いので寝てしまう事にした。
- 2011/09/19(月) 20:44:34|
- その他の事
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「城逢人」の史進さんの情報を元に群馬県の博物館三ヶ所を巡ってきた。
事もあろうかどこも今日までの企画展だったようで、仕事でへばった身体に鞭を打って出動した。

まずは群馬県立博物館を訪ねたが・・・ここが一番面白くなかったかも。
内容が薄い上に一番不満なのが入館料が600円と割高。
せっかく行ったからと入ったが、もう中に入る事は無さそうだ。
・・・でも山崎一先生の本は欲しかったかも。

次は新田荘歴史資料館へ。
ここは200円の入館料で内容もそこそこ充実していてかなり満足。
資料館の前には新田神社に戦勝祈願する新田義貞公像があったので、写真撮りまくり。
いつか武将銅像シリーズってコーナーを開きたくなってくる。

そして最後に太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設へ。
行政お得意の箱物のような所だが、内容はそこそこ良かった。
展示されているフィギュアが精巧に作られていたのでマジマジと見入る。
あと金山城の映画(案内動画?)もなかなか良かった。
んで肝心の企画展は金山城の発掘が主な内容であった。

折角数年ぶりに金山城近くまで来たので、金山城を訪ねる。
過去に行ったのは上州名物からっ風の吹く冬場ばかりだったので、印象がかなり違った。
当時は石垣に目を奪われていたが、今回は土木遺構中心に見入る。
特に囮曲輪の先にある写真の大堀切がとっても良かった。
あと金山城の南方は見渡す限り関東平野が広がっているので、中世城郭に居ながらにして地球が丸い事を実感できた。
それを見ながら風に吹かれて昼寝させてもらった。

うっかり日没近くまで寝てしまったので、日没までに周辺の中世城館を拝見させてもらった。
今回は四件訪れたが、その殆どは宅地及び耕地になっており、遺構の保存状態は悪い。
でも・・・富田館の土塁はちょっと感動した。
やっぱり上州の城はいい、寒い季節に訪れてまったりと乏しい遺構を見て楽しみたい所だ。
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- 2011/09/18(日) 22:30:07|
- その他の事
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姫小川城は埼玉県旧菖蒲町に陣屋を構えた内藤氏が居住していたとされる。
現在、その所在地は不明とされているのだが・・・どんな物か見に行ってみた。

最初姫小川古墳に行ってみた。
ここは流石に古墳だけの様で、城館跡に関する情報がまったくなかった。
となると・・・次は寺だな。

内藤氏が菩提寺としていた誓願寺。
ここならなんかしらの情報が得られそうな感じがする。

この誓願寺の前に水堀にも見えるような地形があるのだが・・・
単なる池と言えば池なのだが・・・

誓願寺の縁起について書かれている案内を見つけた。
文中の中盤あたりに内藤氏に関する記述が見受けられ、この辺りで内藤氏の居館があった事を示している。

境内の墓地には内藤重清の墓があった。
五輪塔のその墓は実に小さく、奥にある碑の方が墓かと思ってしまった程である。
はっきりと館跡は見つからなかったが、これだけ内藤氏に関する事に触れられれば上出来かと。
って事で次なる場所へむかった。
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- 2011/09/15(木) 07:54:10|
- 城館探訪の事(愛知県)
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桜井城所在地
次に訪れたのは安城市桜井にある桜井城。
ここは松平氏の一族である桜井松平氏の居城があった場所で、家康が関東に移封されたときに松平家広が武州松山城1万石で入城している。
っても先ほど土砂降りの雨に打たれて、かなり滅入ってしまっているのだが、折角の愛知県なので行かねばならない。
人気のない所に車を停めて、持ってきた着替えに取り替えた。
失敗したのは靴の替えが無かった事だ。まぁ歩いている内に乾くであろう。

県道44号岡崎西尾線の通りに城山公園がある。
岡崎と西尾を結ぶ主要県道だけに結構通りが多い。
残念な事にこの公園駐車場が見当たらなかったので、速攻で戻る覚悟で近くの路地に駐車させてもらった。

公園は周囲に比べて微高地(造成?)なだけで、城館跡と思わせる遺構は見つからなかった。
入口には木戸(城戸)をモチーフにしたゲートがある。

櫓台にも思える一段高まった部分があり、そこには桜井城を示す石碑が配置されている。

ちゃんと解説板付きという親切さ。
遺構が無くてもこの位のサービスがあっただけで、かなり嬉しくなる。
そして一番最後の所には・・・武州松山城の文字が!!
・・・こんな遠方の地で我らが埼玉の城郭の名が見られるのは・・・とっても感動するのですが。
それにしてもこの城の規模から武州松山城ではかなりの大出世したように思えたりも。

なお、先ほどの櫓台の近くには桜井松平氏の物と思われる墓所がある。
ついでに手を合わせて先ほど与えてもらった感動を感謝するのであった。
よーし!!この城でテンションは回復した!
次の城に行くとしよう。
- 2011/09/14(水) 05:21:50|
- 城館探訪の事(愛知県)
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緒川城所在地
徳川家康の生母於大の方の出生地と言われる場所で、水野氏に馴染みの深い場所である。
埼玉県内にも水野氏に関わる城館跡が二ヶ所あるので、ちょっと遠いが訪ねてみた。

勢い余って城は高い所という認識から於大公園に来た。
でも公園内に設置された地図を見ると・・・町役場より北西の方角だと判明。
ここから歩くのはちょっと遠いので、資料を集める傍ら図書館に停めさせて戴く事にした。
幸い(?)東浦町の図書館は職員さんがコピーを取ってくれる所だったので、待ち時間を利用して緒川城へ。

コピーを依頼して外に出ると・・・雨降ってきてた。
折角愛知まで遠征に来ているのだから時間が惜しい。
ので持参した折りたたみ傘を差して緒川城の方向へ向かう。

ここまで歩いて来るまでには足がズブ濡れ状態に・・・。
この緒川城に近づいた途端の大雨、これは何かあるのか??
一応現場を記念撮影してみたら、フラッシュに水滴が反射する。

豪雨の中グルッと町内を一回りした所で、非常に目立つ丘がある。
ふむ、これは調べない手はないと思い、その現場に近づく事に。

そこは公園になっており、緒川城の城内であった。
では一番高い所へいける所まで行ってみよう。

そこには緒川城の石碑と解説板がおいてあった。
後の土盛りは物見台か?
でもここまで来れたのでちょっと安心。

解説板にはご丁寧にも縄張り図付きであった。
ここはかろうじて残された土塁であったようだ。
って事は先ほどの公園こそ本当の本曲輪だったのだな。

土塁から降りて本曲輪より土塁を見る。
こう見ると唯一のこされた土塁はよい高さがあるのが分かった。
流石に下半身が川に落ちたように濡れているので、この度は撤収する事に。

図書館に帰る途中、排水溝から雨水が噴出しているのを見てしまった。
うーん、ここまで排水処理が付いていけない程降ってるとは・・・
かくして無事図書館に戻り資料をいただき、次なる目的地に行くべく車を安城方面へ走らせた。
ちなみに今回の遠征で唯一の尾張国の城館跡であった。
- 2011/09/13(火) 02:22:06|
- 城館探訪の事(愛知県)
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今日は天気が良く城館探訪に最適な日だったが、あえて出かけず家で色々と勉強していた。
最近特に自分の無知さが目につくので、これからの事を踏まえて勉強した。
このあたりの事が充実してこその城館探訪なので、心おきなく城館探訪できるように頑張ってみたい。
今日もお月様がきれいなんで、後で一杯月見酒でも飲んでみよう。(酒に弱いけど)
- 2011/09/12(月) 18:12:16|
- その他の事
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上和田砦所在地
大久保忠隣にゆかりのある上和田の砦を訪れた。
忠隣は徳川家康が関東に移封された時、埼玉県羽生市にある羽生城主となったが、本人は入らずに城代が置かれたようである。
でもこの遠征の後、当サイトとリンクされている「城郭写真記録」様を拝見したらだいぶ見落としがある事に気付き、結構ガッカリ。

それを知らずに愛知県岡崎市上和田町の浄珠院を訪れた。
山門の前に小堂が建てられており、もやは山門が飾りに見えてしまったりするのだが・・・。
ちょっとネット検索で来たので外れている可能性大。

境内の案内板によればこの地を本陣に家康が一向一揆討伐の指揮をしたのだとか。
そういった意味で中世期の陣城ではあるが・・・大久保忠隣のゆかりの地とはちょっと違うようだ。

本堂の付近には徳川氏の「徳川葵」の紋がいくつか施されており、徳川氏にゆかりの寺であった事を伝えているようだ。
最初っからハズレで今回の遠征・・・先が思いやられる。

次なる目的地へ向かおうとし、交差点で信号待ちをしていたら・・・
なに!?城前???
ここが城前だとしたら・・・・この周辺に城があるはずだ。
って事で予定変更で、周辺の捜索に移行する。

そんでちょっと歩いて探してみたが、狭い路地に民家が建ち並んでいる光景のみ。
いや、この道の形状がいかにも昔からの形を漂わせているので、それらしさは感じるが城館跡に結びつく遺構は発見できず。
かくしてここが消化不良気味だったので後ほど調べ直してみてハズレばかりであった事を知ったのだった。
- 2011/09/12(月) 02:56:26|
- 城館探訪の事(愛知県)
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日中草を刈っていたら、まだまだ夏だなっと感じさせられた。
それ以上に雑草がアスファルトの隙間からニョキニョキ生えているのが根性あるなっと思ったりも。
ただ今儀一の城館旅の各ページをマイナーチェンジ中。
当初作ったページ構成だとどうもきつくなってきた感じがあるので、現在の状況に合わせた変化をさせている。
それにしても地道だ・・・かと言って更新ページに堂々と書くような内容ではないし。
まだまだ先が長いが、地道にやっていこうと思っている。
- 2011/09/11(日) 20:08:04|
- このサイトについての事
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先月、愛知県の城館跡を訪ねて回った。
テーマは「埼玉にゆかりのある武士の城館を訪ねる」というもの。
事前にネットなどで調べて行ってみると・・・遺構は乏しいところが多いのだが石碑が多い事。
そういった意味で愛知県は羨ましいと思ったりも。

早朝、夜行バスで名古屋に降り立った。
天気はあいにくの曇り空で、今にも雨が降りそうな天気だった。
それで名古屋に来て驚いたのは関東のICカードがいつの間にか名古屋の鉄道でも使えるようになった事だ。
そんな事で6時頃の電車に乗って、目指す場所は岡崎市。
何気に今回のテーマだと徳川家康の家臣が多いので、必然的に岡崎・西尾周辺になってしまうのである。
現地についたらレンタカーを借りようと予約入れてあるのだが、レンタカー屋が開くのが午前八時。
待っているのがもどかしいので、いっそ岡崎城でも見に行く事にした。

ここで誤算が一つ、当初岡崎城に行く予定がなかったのでJR岡崎駅に行ってしまったのだが、
実は岡崎城は愛知環状鉄道の中岡崎駅か名鉄の岡崎公園駅が最寄駅であった。
普通ナチュラルな岡崎が中心地ってイメージあるから、真っ先に行ってしまったのだった。
一時間に4本程度の愛知環状鉄道に乗り換えて、中岡崎駅をおりてしばらく進むと、ようやく岡崎城の案内標識がでてきた。

国道248号の地下道を抜け、住宅地を抜けてようやく岡崎城の西を流れる伊賀川へ着いた。
この城もよくある川の合流地点を自然の要害として築かれており、この伊賀川と南の乙川で天然の要害となっている。

かくして城内に侵入。
やはり石垣って迫力がある。
普段は撮影できない石垣をじっくりとカメラに収めてみた。

ようやく岡崎城の天守にご対面。
・・・確かに松の木が撮影を妨げてる。
天守は早朝という事もあって中に入れない。

こういう近世城郭は見た目が迫力があるので見ごたえはある。
見ごたえはあるのだが・・・遺構の乏しい中世城館に比べて興味がそそられない。
やはり観光地なのだなっと思ってしまったのであった。
かくして時間になったのでレンタカー屋へ向かい、二日間お世話になる車に乗って本来の第一訪問地へ向かったのだった。
続きを読む
- 2011/09/11(日) 04:04:34|
- 城館探訪の事(愛知県)
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平本氏屋敷所在地
慶長年中、関東郡代の伊奈忠治に仕える事になった下総国浪人平本主膳定久が、三輪野江地区を開発して住んだ屋敷とされている。
その出自は松戸市の小金城主高城氏の一族であったが、天正十八年の小田原の役で浪人する事になったようである。

平本氏の屋敷と伝えられる場所は現在も人がお住まいのご様子。
ただ平本さんかどうかは未確認。
屋敷林があるあたり、いよいよ屋敷跡という実感が沸いてくる。

その屋敷林の真横には堀らしき溝が伸びている。
うーん、明確でないにしてもこういう地形を見るだけでワクワクする。

写真じゃ分かり辛いが、垣根と同じ高さぐらいの土盛りがある。
これが土塁だったりすると興奮度が高まってしまうかも。

一部水田となっているようだが・・・屋敷の規模が少々小さいのは江戸期の屋敷だからだろう。
ちなみにこの辺りの加藤・飯島などは江戸初期の開発者の姓であり、その功績によって村名になったようである。
なので探し方次第ではもっと屋敷があったのかも知れないが、今のところはここまで。
また近い内に吉川市も再訪問せねば。
- 2011/09/10(土) 06:25:36|
- 城館探訪の事(埼玉県)
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深井氏屋敷所在地
北本市の深井氏屋敷と同じルーツを持つ謎の屋敷。
他の吉川市の城館跡同様河川の側の自然堤防上にある。
ここもまた現在の中川の自然堤防上にある。

って事で屋敷付近にやってきたが、至って普通の住宅街である。
屋敷跡を探している訳だから住宅街であるのは自然でもあるのだが・・・

そんな住宅街でもひときわ目立つのがこの香取神社であろうか。
香取神社が出てくると、もうそこは武蔵国ではなく下総国であると実感できたりする。
ふむ、自分もとうとう神社から土地勘が感じられるようになってきたか。

屋敷の明確な遺構は発見できない。
できないが・・・道路の形状が明らかに何かある形状である。
屋敷などがあった時、その周囲をめぐる道があったりするが、その名残を感じさせる形状である。

ここも微妙に折が入っていて、屋敷っぽさを感じてしまう。
こういう道路は地籍図を元に引かれるだろうから、こういう形になってしまうのかも。
土塁や堀が無くても道路で中世期の屋敷を感じられるのはちょっと嬉しい。
でも人を選ぶ楽しみ方でもある。
(殆どの人はつまらないとしか思えないだろうな)
- 2011/09/09(金) 05:49:24|
- 城館探訪の事(埼玉県)
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戸張氏屋敷所在地
戸張氏は千葉氏の支族で、千葉県柏市の戸張に居住していた事により起こったという。
その戸張氏は室町期に古河公方に仕え、梁田氏の下に付くことになったようで、この吉川の地に来たのもその命を受けての事であるという。
それからというもの、戸張氏はこの吉川の名族として現在も住み続けているようである。

戸張氏屋敷の周辺の風景。
・・・っても単なる住宅地になっているのが現状であった。
せめて中世の趣を感じる場所であって欲しかったのだが・・・

っとさまよっていたら、茂みを発見。
近くに行ってみると・・・ここだけなんとも趣を感じる。
宅地になっているところは、かって堀だったのかなっと淡い期待を持ったりも。

中世の屋敷跡を思わせる場所はさっきの所だけで、大部分がスイミングスクールの駐車場か民家になっていた。
完全破壊よりかは少し地形的な高低が残っていただけでも救いと見るとしよう。
なお、現職の吉川市長は戸張胤茂氏で、千葉氏や相馬氏が通字として使用していた「胤」が付いていらっしゃるので、当地に住んでいた戸張氏の子孫の方と思われる。
- 2011/09/08(木) 05:27:54|
- 城館探訪の事(埼玉県)
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吉川氏館所在地
次に訪れたのは吉川を代表する中世武士吉川三郎の館跡である。
でもこの吉川三郎、幾ら資料を探しても詳しく書いてある資料が見つからない。
ので出自もその活躍もよく分からないままである。

吉川交番前交差点付近に吉川氏の館跡があったという。

交差点を少々西へ移動すると延命寺の山門がある。
『わたしたちの郷土 よしかわ地名編』においても土地の高い所に住んでいたとして、この延命寺を吉川氏館の第一候補に挙げている。
ちなみにこの目の前の道路は交通量が多く、車の隙を見てようやく撮影できたのがこの写真である。

山門脇には吉川市指定文化財である文安年間の板碑がある。
・・・のだがどうも見に行く気になれずに、この山門付近をうろうろしただけで終了。
なんか最近自分でもやる気ない感じがする。
あと吉川市のホームページに吉川の地名を記したページがあったので追記。
吉川市公式ホームページ 吉川の地名・町名のおこり
- 2011/09/07(水) 05:47:26|
- 城館探訪の事(埼玉県)
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『わたしたちの郷土 よしかわ地名編』という資料の「保(ホ)」の項目に下記の記述がある。
「正保五年(一三一六)の松伏町大川戸熊野社古文書に十一月十一日、土佐法橋了弁の子息の能登房が熊野社の別当職に任ぜられた時に、森下やしき(吉川駅北側付近)の畑六十歩を寄進している・・・」
ここまで明確に屋敷の場所を明記されては、ちょっと行ってみないといかんという事で、何も無いのを承知で訪れてみた。

それで昨日のブログに吉川駅北口の写真を掲載したという。
吉川市は隆盛を誇った水運がトラックなどの陸運に代わられて廃れ、衰退の一途を辿りそうになった。
そんな吉川市を救ったのはこの目の前を走る武蔵野線の登場であった。
お陰で町は息を吹き返し、吉川は市制を行うまでに蘇った。
駅前の「都内に直結する鉄道を」という看板が、いかにも悲願を達成したいという想いが伝わってくるようだ。

っとブログを更新していて思ったのは露骨に駅前ではなかった可能性が高いって事だった。
上に書いた通り、この吉川は元々古利根川の水運を元に発展した街である。
となれば鉄道が開通して発展を遂げたこの駅前より、古利根川に近い西の方角こそ屋敷の推定地に相応しい。
うーん、また時期を見て再調査しに行かねばならんな。
- 2011/09/06(火) 05:11:26|
- 城館まがい地の事
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今日は資料をそろえつつ、ちょっと雨が降ってなかったので城館探訪をしてしまう。
場所は埼玉県東部に位置する吉川市、街中は田んぼが失われて新しい町ができつつある。

こんな駅前にかって武士の屋敷があったとは君は信じるかい?それとも笑うかい?
自分はどの辺りにあったのだろうと興味津々。

かと思えば水田地帯が残っている屋敷なら屋敷掘りまでもが。
都会化と水田地帯のよさが同居している素敵な街ですな。
- 2011/09/05(月) 22:28:18|
- その他の事
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横山党田谷氏
一部の資料には北埼玉郡田谷村を領していたとされるが・・・
現在の行政区で田谷と言われる場所は北埼玉郡に見当たらない。
北埼玉郡にこだわらなければ深谷市に田谷という大字がある。
現在熊谷市になる場所に奈良氏が居館を構えていた。
この奈良四郎の弟忠兼が田谷氏を名乗ったとされるので、奈良氏の館跡に程近いという点でこの地と推定できるかも知れないが・・・この辺りがよくわからん。
横山党中野氏
上記の田谷野五郎忠兼の長子師兼が中野次郎と称している。
一説には現在の東京都中野区とも言われるが、その領地は不明。
横山党矢古宇氏
上記の中野次郎師兼の子が矢古宇五郎を称した事により始まる。
矢古宇は現在の埼玉県草加市周辺とされており、草加村や谷塚村などが矢古宇郷に属していた。
後年その書きを「谷古宇」に改められ、江戸期に奥州街道草加宿として知られるようになる。
っと三代に渡って見て来たが、その所領がめまぐるしく変わっている。
中野氏はよく分かっていないが、大まかな居住地の分かる田谷氏と矢古宇氏に関して言えば比較的遠距離に移動している。
矢古宇郷は鎌倉時代から奥州街道の要所とされていたので、幕府より矢古宇の地頭に命じられたと考えられそうだ。
いずれにしても過去の資料が残されていない限りは迷宮入りのようだ。
- 2011/09/04(日) 17:08:10|
- 研究の事
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最近、県外の城館跡ばかりブログに書いていて、埼玉県の城館跡について書いてない気がした。
たしかに一日行っただけで十数ヶ所の城館跡を訪問してしまう訳だから、一日一ヶ所ブログ書いていたら書く所が増えるに決まっている。
そうか・・・これが当サイトとリンクしているサイト様が悩んでいる「在庫」なのだな・・・納得。
県外ばかり行っているようで、実は埼玉県でも怪しい場所や、城館まがい地が次々と見つけている。
やはり小字調査をしてしまうと増えてしまうのである。
中でも一つの大字に「●●貝戸」という小字が幾つも名づけられているのは気になる。
現地は山の斜面に今も民家が点在しており、中世期にも武士が居住していた可能性は充分考えられるし・・・。
場所の立地条件やその他諸々から、城館跡があった可能性を模索してみる必要ありだろう。
それにしても台風の風が強いな。
- 2011/09/03(土) 06:55:12|
- ふと思う事
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大井城所在地
雨はもう止む気配を見せない中、なんとか城館探訪を試みている。
次に訪れたのは大井氏の居城でまんま大井城。
大井城とは総称みたいなもので、南から「黒岩城」「王城」「石並城」の三からなる。
まとめて探訪してみた。

黒岩城は数年前まで南に伸びる尾根があったみたいだが、近年宅地造成によっておおよそ半分ぐらい喪失している。
写真はまさにその削り取られた場所で、いたって普通の住宅地になっている。

白山神社はその削られた部分を残っている。
台地が喪失する前にに行ってみたかった。

黒岩城と王城の間は県道が走っており、切通しの道が拡張されて今のようになっているようだ。
最初王城は公園になっているとの事で駐車場を期待していたが、残念ながら駐車場を見つける事が出来なかった。
(ので先ほどの黒岩城の付近に停めてきた)

王城公園はまんま公園になっており、中世城館跡を偲ぶものは解説板と石碑以外ちょっと見当たらない。
雨の降る公園は人が誰も居らず、雨音以外は静寂そのものであった。

王城公園の奥にはケヤキの古木がある。
これだけの樹齢であるからもしかすると大井城が現役であった頃も見ている・・・かも知れない。
でも発掘調査などでこの城が戦火にさらされ、炎上している事が判明しているので何とも。

石並(いせならび)城も王城と切り通しで区切られた城で、城の台地は現在も崩落が進んでいるようだ。

この地域お得意の地肌の出た絶壁が城の堅固さを視覚で訴えているかのよう。
崩落進行地区なので、当然ここに取り付いて登るのはほぼ不可能かと。

石並城の殆どが墓地になっている。
先ほどから書いている通り崩落進行地区なので墓地は大丈夫なんだろうかと要らぬ心配をしたりも。

墓地に入って王城方面(南)に少し進むと・・・なんとなく現役だった頃の曲輪の面影を見ることができた。
西側は岩村田の集落が密集している所にありながら、この雰囲気を残せたのも墓地のお陰か。
って事で総称大井城と呼ばれる三城を軽く回ってみたが、破壊は進んでいた。
でも墓地に関しては地表上は破壊されても台地が人の手で削られる事はなさそうだ。
雨も依然降り続けているので、今日の城館探訪はここで打ち切り。
昼寝をして帰る事にしたのだった。
- 2011/09/02(金) 05:20:31|
- 城館探訪の事(長野県)
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白岩城所在地

軽井沢から流れてきた湯川が削った斜面を利用した城で、別名平尾氏城とも呼ぶとか。
雨が結構降ってきたので、傘をさしながらも平野部の城館めぐりと行く事にしたのであった。
(写真は後日撮影した白岩城遠景)

平根小学校付近で県道が不自然なカーブを描いている。
これも白岩城の名残?

白岩城は現在殆どが民家・耕地・学校敷地となっているので、明確な遺構は残されていない。
やはり歴史的に不明な城館はよほど凄い遺構が無い限りは消える事が多いものだ。

平根小学校校庭、夏休みでかつ雨が降り始めた事もあって、校庭には人一人も居なかった。
それにしてもどんどん降りが激しくなってきたような。

学校より南に行くと白岩城の端部に着く。
この道もかって堀を利用した切通しだったのだろう。

本当に降りが激しくなってきたので、車に乗って早々に撤退した。
ここは石碑もなく、本当に人々から忘れ去られそうな城であった。
- 2011/09/01(木) 06:22:47|
- 城館探訪の事(長野県)
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