深津寄居から川を挟んで西側にあったのが深津館である。

辺りは農地もちの家が多いようで、民家やら酪農やらが点在している。
流石に民家だと入る訳には行かないので、道を通行しつつそれらしき遺構を探してみる。

民家裏の垣根が館の遺構に見えてきてしまう。
表の家もそれなりの旧家のようで、恐らくはこれが遺構かなっという程度の調査。
長い時間ウロウロするのも問題なので、早々に退場する事に。
ここまで回ってちょっと眠くなってきたので、昼寝をする事にした。
車の窓を開けて寝ると、涼しげな初秋の風が吹き込んできて気持ちよかった。
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- 2012/10/31(水) 03:22:38|
- 城館探訪の事(群馬県)
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深津地区にある寄居は現在宅地化されており、目ぼしい遺構を見る事ができなかった。
集落内を県道が通過しており、写真には写っていないが車が多く通行し、
割りと交通量が多い場所であった。
この逆S字カーブがかっての道を広げた事を思わせる。

この水路が遺構を思わせる唯一の手がかかりか。
民家脇をひっそりと西に流れている。

遺構とはまったく関係ないが、南側に見える丘が個人的に気に入った。
空も広く、フランス辺りの葡萄畑の風景を思わせる。
(実際に見た事がないがこれに近い写真は見た事がある)
城館探訪のついでにこういう風景も見れるのがいい。
- 2012/10/30(火) 03:10:03|
- 城館探訪の事(群馬県)
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日中色々あったので、午後の三時より鉄塔を味わってくる事にした。
行った先は埼玉県坂戸市勝呂地区。
この辺りは鉄塔の交差が多く、とても楽しい交差シーンを見る事ができる。

まずは堂々と東西を横切る新古河線を、群馬幹線が南北に下からくぐるシーン。
通称門型と呼ばれる鉄塔で、以前の旧式なら潜れたのだが、高規格化されたのでこうなったようだ。

そのちょっと先にある群馬幹線420号の紅白鉄塔。
うーん、やはり青空に紅白鉄塔が映えて、とっても美しい。

次も新古河線を潜る東坂戸線。
ここは双子鉄塔となって新古河線を潜るという面白い通過方法。


その双子は「乙」と「甲」に分類されているのも面白い。

そして今回最大のメインイベントである只見幹線423号の登場。
これまでの送電線が何度も潜った新古河線を、軽々と乗り越えるこの鉄塔。
新古河線自体が50m級あるはずなのに、それが只見幹線423号の前では子供のような扱いに・・・。

只見幹線423号の近景。
でかい、本当の意味で見上げる鉄塔である。
せめて423号の全高が知りたいが、足元には書かれてなかった。

かくして日が暮れ、風も冷たくなってきた。
この辺りの鉄塔は本当に面白い、時間があったら新坂戸変電所も見たかったが、
それは後日の楽しみとしよう。
って事で今回全然城館には関係ない日であったとさ。
- 2012/10/29(月) 19:27:51|
- 送電鉄塔についての事
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一日市(ひといち)城は膳城の南1.8km南の一日市地区にあった城で、殆どが宅地化されている。

東端は水路が流れており、今も勢いよく流れている。

土塁などがあったと思われる場所は、道路建設予定地になっているようで、
山崎先生の図面に描かれた土塁らしきものも喪失していた。

民家の片隅には歴史を思わせる五輪塔がある。
ただ、情報が無いので、これが城に関連した人物の五輪塔かまでは分からなかった。
流石にこの辺りまで来ると遺構が喪失気味になっている。
しばらく遺構の無い城ばかりになるが、かっての遺構を思い起こしながら楽しむとしよう。
- 2012/10/28(日) 17:09:50|
- 城館探訪の事(群馬県)
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粕川に面した水田地帯にその名から取ったような名前の田面(たなぼ)館がある。

丁度遺構の付近はというと・・・藪であった。
持ち前の資料によれば、遺構はほぼ喪失との事。
確かにあれば素晴らしかったのだが・・。

この先の森になっている部分が館跡であった部分であるという。
どうも今回も食指が動かなかったので調査終了。
うーん、実に手抜きだ。
- 2012/10/27(土) 01:57:06|
- 城館探訪の事(群馬県)
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同村の膳城ほどの知名度は無いが、この中村城もなかなかいい遺構が残っている。
ここも自分のお気に入りの意向の一つ。

この道端に堀があるパターンは実に好きだ。
もちろん公道なので不法侵入ではないので、、この場にいてじっくりと遺構を眺める事ができる。

これだけの遺構なので解説板付き。
その解説板付近から堀は南に延びる。

城の北東には城主の姫を供養した「姫塚」があり、いつも花が生けてある。

なお、この城は桜の咲く季節になると堀を桜が彩る場所になる。
初めて訪問した時桜が咲いて綺麗だったので、またその季節に訪れてみたい所。
- 2012/10/26(金) 03:43:16|
- 城館探訪の事(群馬県)
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月田地区にあったという月田館を再訪問した。
というのも一回調査しに来た事があったが、見つからずに撤退していたからだ。

月田館の一角。
この辺りは図面とほぼ同じ道路形状なのでほぼ間違いないと思われる。

月田館とは関係ないが、館の南側の風景。
素敵な晴れ空で、城館探訪を楽しみつつお散歩をしてしまうのであった。

南端の道路からおおよそ100mで堀があったとされるが、畑になっていてよく分からなかった。
代わりにさらに先を進んで見たら、素晴らしい自然地形が要害を成していた。
もしかしてこれも館跡の一部?でも堀推定位置より更に100m近く北なのだが・・・。
でもココも館の一部とすれば、結構いい形になると思われる。
- 2012/10/25(木) 01:32:50|
- 城館探訪の事(群馬県)
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ここからは前橋市粕川町になった旧粕川村の探訪である。
さて、粕川村はどこから手を付けようかと考えたら、一番上にある峯屋敷がそのターゲットになった。

この辺りが峯屋敷というが・・・微妙な場所ばかりだ。
という事で裏通りを行ってみる事に。

裏側にやや傾斜はあるものの、広い場所を見つけた。
ココが峯屋敷?とは思いたい所だが、どうにも消化不良を起こしているな。
かくしてここも決定的なポイントを掴めず撤退。
西にある苗ヶ島城の出城なのだろうか?
- 2012/10/24(水) 03:20:52|
- 城館探訪の事(群馬県)
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旧新里村(現桐生市新里地区)において最も大きな遺構である山上城がある。
この山上城の北北東に位置していたのが葛塚城である。

葛塚城の一角、全体から見て最も山上城寄りであると思う。
というのも山崎一先生のお描きになった図面と現代の道路がやや違うところがあるからだ。
この辺りが数十年の月日の流れを感じる。

土塁?堀?と悩みながら進んでいるが、それにしても香りが凄い。
そう、それは俗に言う「田舎の香水」と呼ばれる香りである。
ここまで書けば分かる人にはわかるだろう。

ここはなんとなく堀に見えるのだが・・・決定打がない。
そしてしばらく進むと・・・

これは!遺構の発掘現場??
にしては掘り方が雑なので、長屋の続きが建てられるのであろう。
なんだかんだで目ぼしい遺構が見つからず終了となったのであった。
- 2012/10/23(火) 01:18:17|
- 城館探訪の事(群馬県)
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やはり城館探訪したい欲望は抑えられず・・・今日も行ってしまったのであった。
今日行った所は・・・

ココとか・・・

ココとか、ムチャクチャ絵が上手だ。
あの城郭絵画家の宮坂武男先生がこちらの城館跡もお書きになっているのか?
それにしてもこの絵だけで何処に行ったか分かれば素晴らしい群馬マニアです。
そして自分を驚かせてくれた城館遺構はこれ

こんな遺構がざらにあるから群馬は侮りがたい。
これらの報告は後ほどのブログにて。
城館探訪の仕上げに温泉(&サウナ)に行ってリフレッシュ。
また仕事ガンバルぞ!!
- 2012/10/22(月) 23:14:24|
- 城館探訪の事(報告編)
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飯能市まで来る機会があったので、ちょっと飯能市街を歩いてみた。

飯能市の銀座商店街。
一方通行のこの通りもかって鉄道が走っていた。
写真の左側の建物の一角にその鉄道について書かれた解説板がある。

その名は「入間馬車鉄道」、解説板に載っている通り大正期まで走っていた鉄道である。
書かれている通り競合する武蔵野鉄道(現西武池袋線)が開通した為に廃線となったが、
今の状態で馬車に牽かれた鉄道がここにあったなんて、まずは想像できない。

それと変わって道端には人懐こい(というより無視する)ニャンコも居た。
この子はかなり人に慣れているようで、自分が1m以内に近づいても平然としていた。
しばらくアプローチを試みたが、それも無視して身体を伸ばしてから去っていった。

そのついでではあるが、山城攻略用に登山靴1足を購入した。
今の山城用の靴は靴底が浅く、以前釘が貫通してしまったのである。
その点この靴は靴底が軽く1cm以上はあり、つま先も固い。
これならある程度の藪でもしっかり歩いてくれる事だろう。
この子の今後の活躍に期待しているのである。
- 2012/10/21(日) 20:53:41|
- その他の事
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武井城と山上城の丁度中間ぐらいに、山上城の支城である堂城があったという。

堂城の本曲輪へ真っ先に着く。
若干の草が生えてる程度で本曲輪には特に何も無し。
山崎一氏の図面によればこの先に堀があるようだが、
ココを通過するのをためらった為、今回は未見である。

どちらかと言えば西側の方が堀らしき雰囲気を残しているので要害らしさはあるか。
本当に微高地に築かれた城という印象もある。
さて、次は本城たる山上城・・・と言いたい所だが、
過去に何度も行っているので山上城・膳城は今回スルー。
今回はあくまでも遺構の乏しい城館跡巡りに徹する事に。
- 2012/10/20(土) 03:15:08|
- 城館探訪の事(群馬県)
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元新里村役場の北には武井城という中世の城があったという。

緩やかな傾斜地に武井城はあったとされるが、今は農地および宅地、
工場地になり遺構を発見することは出来なかった。
恐らく右奥の工場が本曲輪であったのではないかと推測する。

武井城の西端部。
ここに平場があるように山崎一氏の図面には描かれているが、
藪が凄くて入る気が萎え萎え。
この直下には鏑木川が流れている。
少々歩いてみたものの、やはり遺構は発見する事ができなかった。
- 2012/10/19(金) 03:41:47|
- 城館探訪の事(群馬県)
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善昌寺城シリーズも西に位置する中務(なかつかさ)館で全て揃う。

中務館というより、中塚古墳の方が有名のようで、案内すらも付いている。
赤城山塊から南に延びる緩やかな傾斜地にあり、日当たりも実に良好。

古墳には標柱と解説板が付いているが、中務館についての事は一切かかれていない。
『新里村誌』には「中塚古墳の東端、地続きにある」と書かれているので、
恐らくはこの辺りかと思われる。

北山館ほどではないが、こちらもそれなりの眺望はある。
眼下は資材置き場になっているが、それも現代にマッチした光景と見るべきか。
空が真っ青なので、散歩をしているだけでも気持ちいい天気だった。
- 2012/10/18(木) 03:35:11|
- 城館探訪の事(群馬県)
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北山館は善昌寺の北に位置し、背後の守りを固めているように見える。

北山館があったと思われる付近の風景。
そこは比較的緩やかな丘の上で、要害と呼ぶには相応しくない地形でもある。

だが、眺望だけは非常に優れており、南側はかなり遠くまで見通せる。
その傍らには個人的にお好みの電源開発所有の鉄塔只見幹線がある。
調べれば福島県の奥只見から発し、東群馬変電所と新坂戸変電所などを経由して
西東京変電所へと伸びる素敵な程長距離の幹線鉄塔である。
特に埼玉県坂戸市にある423号鉄塔は見る者を圧巻する。

北山館に話を戻すと、この果樹園辺りに遺構があったと思われるのだが、
今回はその遺構を発見することが出来なかった。
『新里村誌(昭和49年刊)』には「濠跡塁跡が認められ・・・」とはあるが、
流石に40年近く前の郷土史からなので、遺構が失われている可能性もある。
また再調査しに行ってもいいかなっと思える景色の良い場所であった。
- 2012/10/17(水) 03:29:48|
- 城館探訪の事(群馬県)
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善昌寺城の一部で、南に突き出した丘陵部に作られている。
ここは源氏新田氏の支族である藪塚氏が隠れ砦とした城跡であるという。

この先の森が谷津館であるという。
写真では分かり辛いが周囲からはちょっとした高さがあり、
砦と呼ぶのが相応しいようにも思える地形である。
おお!!実はあまり期待しないで行ってみたのだが、なんとも自分好みの堀が道端にある。
この堀跡を見た直後テンションが見る見る内に高まってしまった。

それを見たら堀底に立って写真と撮らずにいられない。
堀と土塁の競演を楽しみつつ、埋もれかかっている遺構に酔いしれる。
うーん、人にもよると思われるが、自分的にはかなり好みの遺構。
同じ村内にある山上城に比べたら規模がイマイチだが、
自分としてはこちらの方が実にいい!!

特にこの道端にひっそりとたたずんでいる堀がいい。
おかげさまで似たような写真を何枚も撮影してしまう。
山城の堀切もいいが、こういう館跡の堀もなんとも言えぬ味わいがある。

堀底と土塁の比高差はおおよそ3m近くあり、
現役時代にはもっと高さがあったと思える。
ヘタに公園化しておらず、後世の手が加わっていないこの遺構は
自分の中では同村の山上城を超えてしまったのであった。
また訪れたい遺構の一つにランクインした谷津館であった。
- 2012/10/16(火) 02:52:16|
- 城館探訪の事(群馬県)
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元新里村の善昌寺はかって大同寺と呼ばれた古刹で、
新田義貞の首塚があったりと源氏新田氏とのゆかりが深い寺である。
山間にあり、その周囲を三つの館跡が鼎の如く周囲を囲っているので、
恐らくはそれらを含めて善昌寺城と呼ぶのであろう。
今回はその本体である寺への突撃である。

山間にある関係からか本堂付近は人の通りも少なく実に静か(平日というのもある)
本堂にお参りしつつ、新田義貞首塚へ向かうとする。

本堂の脇に既に首塚が裏にあるとの案内があるので、参拝後回って行って来た。

首塚と言われる五輪塔が屋根付きで本堂真裏にあり、厳粛な空気に包まれていた。
まずはこれらの五輪塔に両手を合わせ、新田一族の冥福を祈る。

その傍らには首塚についての解説があり、舟田長門守入道善昌が義貞の首を持ち帰り
この寺にて供養した事が書かれている。
現在の寺名はその舟田長門守入道善昌の名から来ている。

裏地は緩やかな斜面ながら、幾つかの削平地が見られる程度で明確な遺構は見られない。
それも今は墓地などになっている。
- 2012/10/15(月) 03:37:10|
- 城館探訪の事(群馬県)
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約一年程使った
先代 儀一の独り言から新たにこちらのブログに移動した。
前のブログは問題点が二つあり、一つはバックアップ(エクスポート)が取れない事。
もう一つはいちいちパスワード入力しないと記事を書き込めない仕様であった。
そこでこの二点をいかにカバーするブログがあるか調べたら、
結局ここのブログに落ち着いたという訳である。
同じFC2で過去にブログやっていたが、そちらは何故か編集できないので、
新しくこのブログを立ち上げた次第である。
書き込みやすくなった分更新が進むといいのだが・・・。
- 2012/10/15(月) 00:00:08|
- このサイトについての事
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