西光寺館所在地別名に塚越城とか色々とあるようだが、『埼玉の中世城館跡』にならってこの名前にする。

名前にもなっている西光寺境内。
遺構はこの北側にあるという。
公道沿いに東側より回りこんで、遺構を見に行く。

雑木林に通じる道を入った途端、土塁がお出迎え。
北側は旧安刀川(今の呼び名は高麗川)の流路で削られている為、比較的小高くなっている。
更にこういう土塁や堀を設けた辺り、いかに北側に意識した城であったかを思わせる。

こういう中世期の遺構を何時までも残しておき、後世の人々に中世期の謎を解く楽しみを残してあげたい。
ふとそんな事を思わせる遺構であった。
現在では圏央道が開通し、遺構が破壊される可能性は充分残されている。
やむを得ず破壊する事になってもしっかり調べてから壊して欲しいものだ。
今更ながら中世城館跡に対する想いが何故か沸き起こるお気軽城館探訪であった。
その後近くの新坂戸変電所へ行き、鉄塔を堪能してきたのであった。
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- 2012/11/30(金) 03:56:31|
- 城館探訪の事(埼玉県)
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小島屋敷所在地住吉神社の北あたりにあったのが小島屋敷であった。

閑静な境内に建つ住吉神社の本殿。

住吉神社は埼玉県の約西半分、十二郡の総社として栄えたという。
時の権力者からも認められ、中世においてもかなりの力をもっていたようだ。

屋敷らしき遺構を探してみたが・・・この茶畑にある溝ぐらいしか見つからなかった。
居住者の小島氏は住吉神社の関係者であったというから、遺構はあっても控えめか。
- 2012/11/29(木) 02:41:18|
- 城館探訪の事(埼玉県)
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構堀屋敷所在地塚越館より西に歩いて300m程の所に構堀屋敷がある。
ここの目玉はなんと言っても遺構の見学し易さであろうか。

公道の、しかも歩道沿いに見学できる堀は数あれど、ここまでスッキリしている堀はそうない。
逆に「本当に堀なの?」って言われそうな程スッキリしている。
堀跡はよく埋め立てられる事が多い中、ここはよく残してくれているのでありがたい。

しかも、堀跡は一部を除いて一区画を囲むようにしっかり残されているのだからたまらない。
これに土塁があればパーフェクト状態だったが、ここまであれば文句は言うまい。

北側に回ってみると、堀が二重になったりと、ちょっと複雑になる。
かえって何処までが屋敷の堀だったのか分からなくなる。

何気なく板碑が置かれてるあたりが、城館跡らしさを出している。
箒と一緒に置かれているのがなんとも印象的ではあった。
- 2012/11/28(水) 03:25:59|
- 城館探訪の事(埼玉県)
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塚越館所在地埼玉中心のサイトのはずなのに、ブログを見ると群馬の城館跡ばかりになっているこの危機感。
なので久々に埼玉の城館跡をアップしていく事に。

坂戸市の市街地から東に行った所に住吉中学校があり、
その周辺には多くの中世城館跡が密集している。
実は坂戸市はその面積の割りに城館密度が高い街で、
どうサイト上でまとめようかと考えさせられた街であった。
流石に50~60ヶ所の城館跡を1ページに纏めるのはキツイので、
かっての三芳野村・勝呂村・坂戸町・入西村・大家村に分類する事に。
これなら多くて20ヶ所で住むので当サイトのやり方でもいけるかなっと。
そんな事で前置きが長くなったが、塚越館である。
遺構のある場所は公道から離れた場所にあり、畑の脇道を通っていく事になる。

おお、埋もれながらも僅かな窪みを持つ堀跡に、土塁がちゃんと残っている。
坂戸市も市街化の著しい町ではあるが、こうして遺構が僅かに残っているのを見ると
まだまだ捨てたものじゃないと思えてくる。

反対(南)から見てみると、その立体感がよりよく分かる。

やはり気になるのは土塁や堀の近くに建てられている水村さんの供養塔であろうか。
源氏の水村氏を調べる術は今持ち合わせていないが、この場所に板碑ではない供養塔を建てるのは
何か特別の意味があるのか?それともたまたまなのか?
詳しくは他のサイトを参照の事(逃げ)
資料も持ち合わせていないブラリ城館探訪なので、
次なる場所へと移動していく。
- 2012/11/27(火) 04:25:50|
- 城館探訪の事(埼玉県)
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昨日の城館探訪にハッスルしすぎた反動で、今日はたっぷり寝てしまっていた。
もっとも天気が悪かったのも睡眠促進を促していた所はある。
そんな事でしばらく自分のサイトを放置していたので、各ページを見直す。
結構誤字や脱字が多く、これを読ませてしまった皆様には申し訳ない。
かくして自分が発見した辺りは訂正して再アップ。
そろそろ群馬ばかりじゃなく、埼玉県の中世城館跡のアップもせねば。
調査したいまがい地も結構溜まってきているし。
- 2012/11/26(月) 23:52:13|
- その他の事
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また群馬県の城館跡を見に行ってしまったのであった・・・。

暗いのでちゃんと写せなかったが、ただ今氷点下3℃。
晴れていて、尚且つ山間部だったのでこの位の気温になってしまうようだ。

そして目的地に到着したのはいいが・・・やっと東の空がうっすら明るくなり始めたぐらい。
これでは全然調査ができないので、しばし寝て待つことに。
城館探訪の記録に関しては後日このブログにて。
今回はその城館探訪で遭遇した熱い鉄塔たちについて語りたい。

晴れ渡った空にそびえ立つ(おそらく)西群馬幹線の鉄塔。
山を物ともしない巨体に、谷間にいる自分は圧倒されまくり。
しかし、その足元は笹薮が密集しており、入る気力が失せた。
城館跡に行くより保守の為に通路が作られる事が多い鉄塔に行く方が困難って・・・。
のでルートからしか推測できず、ナンバーも知る事ができなかった。
いつかこの辺りのナンバーも再調査したいものだ。

変わってこちらは榛名線44号。
丘陵部を滑空するかの如く這う架線に、ちょっと目を奪われる。

同じく榛名線45号。
こちらの方が若干中の腕金が長く感じられる。
幹線クラスに比べてコンパクトだが、この古い型が自分的に好み。

空が若干曇りがちになったが、新吾妻線231号(大きい方)と吾妻川線2号(小さい方)の競演。
西群馬開閉所から発する鉄塔は、どれも幹線クラスでその巨体に度肝を抜かれる事しばしば。
昭和56年生まれの新吾妻線パパに対し、吾妻川線は平成23年生まれの赤ちゃん状態。
そう考えれば、この二基の年齢さはまるで親子だ。
高さも新吾妻線83mに対して吾妻川線は36mだしね。

今回は山城が多かった為、城館跡は7箇所に留まった。
それにしても今日はよく天気が持ってくれたので、楽しい城館探訪&鉄塔鑑賞ができた。
帰りは写真の山が見える温泉に入ろうかと思ったが、疲れて寝てしまった。
温泉の閉館時間間際に目を覚まし、高速道路を使ってパーキングエリアめぐりを楽しむ。
高速道路って滅多に使わないので、結構楽しく色々と見させてもらった。
- 2012/11/25(日) 23:59:07|
- 送電鉄塔についての事
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荻窪城へは公道脇に案内が立てられており、初訪問の方にも優しい。
では早速城内を歩く事にしよう。

しばらく歩くと土塁と空堀の歓迎を受ける。
こういう道沿いに城館遺構があると嬉しくなるね。

土塁と堀を越えれば、荻窪城の本曲輪となる。
現在は空き地になっているようだが、地元の方か誰かが管理されているようで、
藪にはなっていない。
恐らくは公園敷地という所か。

しかも、解説板に城の現役時代の推定絵画も付いている。
この絵を見ながら中世期の城の姿に思い馳せる事ができるのはいい。

さらに本曲輪には近代風にリニューアルされた井戸付き。
でも井戸と確認していないので、間違っていたら失礼。

一部宅地化されているものの、比較的遺構が残されているのがいい。
これで駐車場と公衆トイレがあったらパーフェクトだったが、
忘れされられている中世城館跡が多い事を考えれば、荻窪城は幸せな方かも知れないな。

荻窪城を周り終えて、西の空に陽が沈もうとしている。
今日も(といっても一ヶ月前の話だが)、いい城館跡を多く見る事ができた。
また近々群馬の城館跡を見に行きたいものだね。
この後某温泉に行き、ゆったりと楽しんできたのであった。
- 2012/11/24(土) 03:00:53|
- 城館探訪の事(群馬県)
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旧桂萱(かいがや)村にある西荻窪城を訪ねる。

城の主要部は宅地になっているが、周囲は畑になっていて、のどかな風景である。

いかにも堀があったような風景ではあるが、明確な遺構は見つけられなかった。

いくらか地形の高まりも見受けられたが、これは土塁と見るべきか?

歩いていると「上泉伊勢守」の幟(のぼり)が。
地元桂萱の英雄である上泉伊勢守信綱を大河ドラマにしようという活動のようである。
確かに題材としては面白いかも知れない。
かくして西荻窪城の調査は終了。
- 2012/11/23(金) 03:32:52|
- 城館探訪の事(群馬県)
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兎貝戸(うさぎかいど)の砦は小坂子町の南、芳賀中学校東南付近にあったという。
東側は写真の通り自然に高台を構成しており、この崖を利用した砦であったようだ。

ひとまずこの付近から登れるか道を探すと・・・
沢にコンクリートの板で渡してあったので利用させていただいた。

おお!これってもしかして堀跡か?
それらしい地形が現れ、結構興奮してきた。

しかも「兎替戸の砦跡」と書かれた標柱付き。
もっとも仮に遺構が無かったとしても、こういう標柱を見つけただけでテンションは上がる。
ちなみに写真奥に見えるのが芳賀中学校。

ほぼ農地となっているが、砦の形は完全に崩れていないようだ。
こういう所は自分としては好みである。
しかも東側は高台になっている為、結構見晴らしがいい。
- 2012/11/22(木) 03:12:07|
- 城館探訪の事(群馬県)
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勝沢城は先に訪れた嶺城の支城であったという。
今は宅地化されているというが、どの位遺構が残されているのか調べてみる事に。

城付近は周囲に比べて地形が高く、要害であった事を僅かに思わせる。

おお!城付近の畑には討ち取った敵将の首が!!
っと思わせるようなマネキンの首が置かれていた。
案山子(かかし)だったのだろうが、これだけだと人間に対して効果抜群のような。
暗闇でこれを見つけたら怖いです。

肝心の遺構は宅地と藪に覆われており、明確な物を見る事ができなかった。
この茂みのあたりにも堀があったようなので、未だに保存されていると思いたい所である。
- 2012/11/21(水) 03:02:03|
- 城館探訪の事(群馬県)
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次に訪れたのは嶺町にある嶺城、田中氏の城であった事から別名田中城とも言う。
ここも赤城山からのなだらかな傾斜を利用した城であるようだが・・・。

宅地の近くに竪堀らしき地形を発見、これだけでもあれば上出来かと思う。
一応本曲輪付近も行ってみる事にする。

おお、適度に藪も無く見学し易い。
その先にある地形が凄く気になる所だ。

おおお!!
いきなり巨大な堀切が現れて、ビックリする。
事前に遺構の保存状態を調べずに訪れているので、この堀切には驚かされた。
遺構の状態を知らずに来るとこういう所でドキっとさせられていい。

折角なので堀切を越えて本曲輪を目指してみる。
ところが藪が凄くて写真も撮れず、あえなく撤退する事に。
堀底に来ると堀の深さが実感できて実にいい。

本曲輪直下の集落に何故か「本丸跡」の標柱が立てられている。
非常時以外はこの麓に住んでいただろうから、本丸というのもウソではないかも知れない。

恐らく嶺城の解説板とは思いたいが・・・板が朽ち果てており、読む事は不可能であった。
でも土木事務所なので、嶺城の解説板ではない可能性もある。

嶺城の麓からは霞の向こうに群馬県庁の高層ビルを眼にする事ができた。
群馬県庁は厩橋城跡に有るので、言い換えれば厩橋城の状態を嶺城から見る事が出来たとも言える。
それにしてもこの嶺城は本当に面白かった。
- 2012/11/20(火) 11:01:57|
- 城館探訪の事(群馬県)
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しばらく風邪気味で外に出れないので、ネットから鉄塔を追う事をしていた。
新古河線みたいな平地の鉄塔を追う事は簡単だったが、問題は山岳地帯。
尾根上に張られているのは分かるのだが、その尾根のどの辺りなのか分からなくなってくる。
新所沢線の山岳地帯なんて・・・どうやって新多摩変電所まで追えばいいのだ??
っと諦め気味な時に救世主が!
Googleマップが等高線付きで鉄塔所在地を表示していたのである。
これは助かる!
でもちょっと場所を見失いがちだが、それでも無いよりまし。
路線一つ追跡するのも大変だが、変電所同士を地図上の路線で接続させた時は感動した。
これが山岳路線で出来たときは凄いんだろうな。
- 2012/11/19(月) 17:16:34|
- 送電鉄塔についての事
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このブログは予約投稿しているので勝手に更新していたが、
実を言うと数日前から風邪が治らず、集中力が低下していたりする。
あー、外が気持ちのいい晴れ間なのに、城に行けないー
調べたいまがい地もいくつかあるのに、調べに行けないー
あまり風邪が長引くようなら、もう医者に行って治してくるとする。
喉が治ると鼻水が、鼻水が治ると喉が痛くなる。
今年の風邪は本当にしつこい。
って事で当方の現状でありました。
- 2012/11/18(日) 18:21:27|
- その他の事
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次に訪れたのは小坂子(こざかし)城である。

東側から田んぼ越しに小坂子城を望む。
この辺りは本当に沢が削り出した地形を巧みに利用した城が多い。
この城もその一つである。
なお、撮影したこの場所にも出城があるが、写真を撮ったが宅地なので掲載は控える事に。

んん!これは土塁君ではありませんか?
周囲は農地になりながらもこんなゴッツイ土塁があるなんて・・・ステキだ。
なんとなくだが奥に向かって堀が延びていたようにも見えるが・・・

これはほぼ堀跡を道に転用したケースだろう。
遺構はその地形を少し変えながらも地域の生活に根付いている。
ここはここで見ていてとても楽しかった。
なお、南は八幡神社まであったようだが、今回の調査はここまでである。
- 2012/11/17(土) 03:22:00|
- 城館探訪の事(群馬県)
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ここからかっての芳賀村の城館探訪となる。
最初に訪れたのは小坂子(こざかし)町にあったとされる小坂子要害であった。

赤城山からの沢が地形を大きく削り、高低差がある地域である。
その地形を利用してこの要害はあった。

おそらくこの辺りは堀であったと思われる農地。
県道101号の旧道らしき道を進むとこの場所に出る。
要害は現在宅地になっており、ちょっと調べられなかった。

旧道は現在となっては宅地への市道となっているが、
その脇にはかっての生活を支えた道の跡がガードレールの向こうへと伸びている。
こういう旧道を見ると、中世城館を見るような気持ちになってくる事も。
それにしても今回は随分と簡略な調査だ。
- 2012/11/16(金) 03:59:45|
- 城館探訪の事(群馬県)
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今城は勝山城より歩いてすぐの所にあり、勝山城の出城という印象がある。
丁度緩やかな舌状台地という地形で、北側を除いて周囲は田んぼという素晴らしい地形である。

今城の南東部付近の光景。
これより南はずっと田んぼが広がっており、この僅かな地形の高まりがいい。

ただ、惜しいのは堀があったんじゃないかと思われる場所は大正用水が流れており、
痕跡を既に残していない事にある。
考え方によっては堀をそのまま用水路に利用した可能性がある。
そういった意味で現在では水堀を擁しているとも言えるか。
かくして今回の大胡町の調査はこれにて終了。
- 2012/11/15(木) 03:44:09|
- 城館探訪の事(群馬県)
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勝山城は上毛電鉄の線路沿いにあり、今は閑静な住宅街となっている。
なんとなく遺構は無さそうにも思えるが・・・一応調査。

所々にこういう土盛が見られるが・・・これも遺構なのだろうか?

これも単なる垣根か?あるいは土塁か?
少々範囲が広いので、城がどういう形態をしていたのか考えられる所。
って事で今回も明確な遺構を見出す事は出来なかったのであった・・・。
- 2012/11/14(水) 04:43:07|
- 城館探訪の事(群馬県)
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寺沢川の脇の旧家付近が横沢城であったといい、別名日向屋敷とも言う。
早速遺構の保存具合でも見に行くとする。

横沢城の東端部分。
その周囲を取り巻くように公道になっているので、この辺りは見学しやすい。

一瞬堀底道に見えるが、後年のものであろうか。
この道に沿って北側に周ってみる。

旧家の裏側は不審者除けとも取れる有刺鉄線で仕切られており、
その向こうには堀らしき魅惑の地形が・・・
きっと自分の様な城館探訪者を住民の方が快く思っていないのかも知れない。
そのままもうちょっと西側も見て回る。

ずっと有刺鉄線が張られており、それに沿うように堀と思える地形も伸びていた。
更に先は行くのを控えた。
むしろ堀がそこそこ残されていた事で満足すべきだろう。
かくしてここの調査を終え、次の場所へ向かった。
- 2012/11/13(火) 03:36:35|
- 城館探訪の事(群馬県)
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題名の通り昨日は学生時代の友人に会う為に車で八潮まで行ってきた。
それにしても道が混む混む、お陰で約束の時間を40分もオーバーしてしまった(汗
その後無事合流し、友人のお勧めである八潮市にある喫茶店に足を運んだ。

建物はログハウスみたいで落ち着いており、中もなんだか隠れ家的な印象のあるお店。
天気も雨だったためか、写真の二階席には我々以外居なかった。
久々に話をするのにもってこいの場所であった。
店の雰囲気もそうだが、凄いのはコーヒーカップの量であった。

そんなこんなで頼んだのはホットコーヒー。
でかい!!まるでジョッキだ。
でかさが分かるようにタバコの箱と500円玉を置いて比較、
明らかに普通のコーヒーカップの二倍以上はある。
実はでかいのはそれだけではなかった。

うおー、アイスパフェまで巨大サイズ(自己比)
正直これをウェイトレスさんが黙々と持ってきた時に、言葉を失いました。
大きさに圧倒されたのもそうだが、ちゃんと人型をしているのもあって
勿体無いかもと思いつつこの子を少しずつ分解していく。
もちろん出された食事は残さず食べるのは我が信念で、しっかり平らげた。
この店の巨大メニューもそうだが、数年ぶりに会う友人との話は実に楽しかった。
お互いに色々と悩みを抱えている所もあるが、また会おう!!
って事で雨の中、八潮まで行った話でした。
- 2012/11/12(月) 00:26:23|
- お付き合いの事
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大胡館は大胡城の西にあり、現在では養林寺になっている。

看板にも「大胡城主菩提寺」と書かれており、大胡城との関係も深い。

養林寺の本堂にてお参りをし、怪しくない事をピーアールする。
ではご城主様のお墓参りへ。

大胡城主牧野氏歴代の墓所は、本堂西の墓地のほぼ中央にあった。
脇に墓所についての解説板もある。

さてさて、肝心の館の遺構はというと・・・これ?
本堂を囲むように土塁らしき物があるが、なんとも微妙。
元々経歴もよく分からない館なので、この位であろうか。
- 2012/11/11(日) 03:54:20|
- 城館探訪の事(群馬県)
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余りにも遺構の無い場所ばかり行っていたので、眼の保養に大胡城に行く事にした。

大胡城の土塁は一部トンネルになっており、二の曲輪まで車でいけるようになっている。
土塁にトンネルのあるケースはここと栃木県佐野市の赤見城ぐらいしか知らないが、
他にもあるのだろうか?
なお、このトンネルの脇に「大胡城跡」の石碑があるのを初めて知った。

二の曲輪にはこの様な枡形小口があったりしたが・・・前回見た記憶ない(汗
それにしてもこの土のデコボコが非常に美しい。

この堀にはいつも癒される。
今日はずっと目ぼしい遺構を見ていなかっただけに、これで元気が出る。

以前は人材シルバーセンターがこの二の曲輪にあったと思ったが、何時の間にか撤去されている。
代わりに大胡城の解説板が設置されており、当時の絵まで再現されて実に良い。

本曲輪も実に広々している。
こんな広い本曲輪に自分ひとりしか居ないのを見て、大胡城を借りてるような錯覚すらも覚えた。

本曲輪北側の土塁上からの撮影。
これで大胡城がどれだけの高さがあるのか分かる。
うーん、実にいいね。
詳しい事は他のサイト様やブログ様が書いているので、ここでは割愛。
って事で次に参りましょう~
- 2012/11/10(土) 05:54:10|
- 城館探訪の事(群馬県)
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城館探訪もいよいよ元大胡町に入った。
最初に訪れたのは上毛電鉄樋越駅近くにある稲垣屋敷である。
流石にここまで来ると平坦地になりつつあるが、一部谷の深い部分もある。

たまたま線路脇を歩いていたら電車が来たので記念撮影。
二両しかない辺りがローカリティ(?)あっていいね。

稲垣屋敷の東側に当たる部分、屋敷自体は今も宅地なので撮影は控えた。
明確な遺構は無いが、かってここは沼地か何かだったのかも知れない。

更に北側を調べようかと思ったが、段々藪化してきたのでおさらばした。
しかしながら屋敷の範囲を考えたらこの藪までは至らない気がするので正解だったかも。
- 2012/11/09(金) 03:17:22|
- 城館探訪の事(群馬県)
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柏倉地区には大崎氏の住んでいた屋敷があったという。
現在でもその子孫たる大崎さんが大勢お住まいになっている。

屋敷があったらしい場所を探してもほぼ宅地になっており、僅かにこの水路がその名残を残すのみ??
と言いたい所だが、山崎先生の図面とは少々場所が違うようにも思えたので更に探索エリアを拡大する。

南側にいいクランクをした道があり、その内側には土塁が。
確かに要害っぽいが、本当にこれが大崎屋敷?
写真の道もかっては堀だった所を埋めた物にも見えるのだが・・・

推定地の西を走る比較的広い道路脇には、なにやら土塁の断面図にも見える地形が。
ここまで類似地形が多いともう降参、という事で地元の方に聞き込みをしてみたが・・・ご存知なかった。
しかもお聞きした方は大崎さんだったのだが、屋敷の話は伝わっていなかったようだ。
大崎屋敷に行ったような、行かないようなという曖昧な状態で調査終了。
やはりなにやら消化不良だね。
かくして元宮城村の城館探訪はひとまずこれにて終了。
- 2012/11/08(木) 03:00:40|
- 城館探訪の事(群馬県)
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赤城山の山腹に忠治温泉があり、そのすぐ側に苗ヶ島城の詰めの城と言われる宿の平(しゅくのだいら)城がある。
こちらから見ると比高差おおよそ50m程なのだが・・・明確な道がない。

この交差点に何故か前橋市が建てた宿の平城の標柱が設置されている。
確かに麓には違いないが・・・できたら城跡に建てて欲しいのだが・・・

北の尾根伝いに登ろうかと思ったが、結構鋭く切通しされており、これではムリだと判断。
ならば西側から登る事にする。

西側は元々道だったようで、尾根に取り付くところまで行き、そこから直登する。
明確な登り道が無いが・・・。どこかにあるのだろうか?

西側の尾根に一段平場を作り、その上には主郭があった。
前橋市指定史跡の割にはかなり放置されており、人が訪れた気配が薄い場所であった。
堀切や土塁はなく、平場を幾つも連ねて構成されている辺り、初期の頃の城であったと想像する。
その後北の尾根を下ったつもりが・・・いつの間にか東へ向かっており、
目の前に粕川のせせらぎが聞こえてしまったので、一回戻ってルート変更。

北側の尾根にある平場、ここから先は先ほどの切り通しがあるので進めず。
では山崎先生の図に従って降りてみたら・・・道が見つからない。
結局獣道を探し当てて、なんとか降りれたとさ。
という訳で忠治温泉から行く場合、西の尾根から取り付くルートが良さそうだ。
(それに駐車場や公衆トイレも完備されているのでちょっと安心?)
- 2012/11/07(水) 03:37:05|
- 城館探訪の事(群馬県)
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本日最後になる市之関館は場所自体見つけることが出来たが、凄い藪っぽい。
果たして何処から遺構のある場所にいけるのやら?

館は周囲より高く、一部宅地になっていたりして、今回も萎えて撤退するハメになった。

西の空を見れば雲間から光が差していた。
このまま晴れるかと思ったら、急に雨が降り本日(10月1日)の探訪は終了した。
そしてそのまま温泉に入っていったとさ。
そして後日・・・再訪問。

先日の墓地脇に自然に帰りつつある道があったので入ってみた。
丁度館の東側を回るルートになるので、北側の堀跡が見れるか?

おおお、こりゃ凄い水堀(一応沢)だ。
かなり深く切り込んでいるので、降りれる気が全然しない。
そしてその奥の茂みの中に本来の堀があると思うが・・・
現時点では確認する術がない。
この後立ち去ろうとした時危うく手持ちの資料がこの水堀に落ちそうになった。
城館探訪は常に油断禁物である。
- 2012/11/06(火) 03:29:56|
- 城館探訪の事(群馬県)
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今日は久々に午後まで寝てしまっていた。
天気が西から崩れるとの事だったが、今のところは日差しも出ている。
という事でちょっと行った所はここ。

ゴミ捨て場の看板だが、「馬場」の地名が入ってるのがいい。
それにしてもこの辺りは本当に城館跡の密集地帯で、散歩感覚で色々な遺構が楽しめる。

何ヶ所か中世城館跡を見た後、先週からムラムラしていた「新坂戸変電所」を楽しむ事に。
中世城館跡も送電鉄塔も好きな自分には、この辺りは見ごたえのある場所である。


新坂戸変電所内部を通過(敷地内を西側から周り込んでいる)している群馬幹線のナンバー。
最近は行く城館跡でよく群馬幹線に遭遇するので「軍艦(ぐんかん)」と略して楽しませてもらっている。
鉄塔の一基一基は独立しているのに、一応ナンバーは「419」でカウントしている。
これは新坂戸変電所に接続する事を踏まえて統一ナンバーにしているのだろうか?
この辺りはちょっと興味ある。

新坂戸変電所から東に伸びる「東京中線」。
現在では圏央道と共に越辺川を渡り、川島町に入っている。
ところがこの東京中線のナンバーに、異様な物を感じた。


年季が入ってかなり色あせたそのナンバーの桁を見たら・・・四桁。
あの群馬を発しているグンカンちゃんですらも三桁だというのに、四桁のナンバーには驚いた。
これは後で東京中線を調べてみる必要があるな。
って事でほんの数時間だけだったが、凄い楽しかった。
中世城館跡も行ったが、今日はどちらかと言えば鉄塔メインになったのであった。
- 2012/11/05(月) 17:39:17|
- 送電鉄塔についての事
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先日「サイトが青くて目がチカチカする」というご意見を戴いた。
自分としては青は安らぎの色という認識があったのだが、
よくよく調べてみると、それは大きな間違いであった事が分かった。
人の目に見える電磁波を可視光線(光)と呼んでいるが、
この可視光線より更に波長が短い電磁波を紫外線と言うらしい。
波長が短いという事はそれだけ人の細胞を破壊する効果を持ち、
人体に悪影響を及ぼす事もあるのだという。
特に最近は「青色光網膜傷害」という目の網膜への悪影響も報告されており、
モニターを見ている方の眼に多大な負担(ヘタすると傷害)を及ぼすという。
参考サイト →
青色光の危険性 - 青色光網膜傷害自分の無知であった事もあるが、閲覧者の方に害を与えるサイトではいけないと思い、
数時間かけてサイトの青色を大まかに茶色に変更した。
茶色を主色とした事によって、なんとなく温かみのあるサイトになった気がする。
まだリンク関連の色はブルーなのだが、これも追って変更するかも検討したいと考えている。
- 2012/11/05(月) 00:53:43|
- このサイトについての事
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西屋敷より北に600mほど行った所にあるのが三本木城。
・・・らしいのだが、遺構の保存状態が少々分かり辛いか。

この辺りが堀跡にも見えるが、微妙な残り具合。

南側は養豚場になっており、入るのは控えた。
それにしてもええ香りが致しますな(臭覚マヒ)
ポツポツ降り始めた感じもあるので、足早に本日最後の遺構へ向かう。
- 2012/11/04(日) 03:20:10|
- 城館探訪の事(群馬県)
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旧宮城村の柏倉地区の南端に堀の内の地名があり、そこには「西屋敷」と呼ばれる城館跡があったという。
西屋敷という名称からも東にある苗ヶ島城から見た地名なのだろう。
早速現地に行ってみた。

西屋敷を東側から見た光景、周囲が荒砥川の支流に囲まれており、低地ながらも要害感がある。

近景、むむ?なにやら土塁らしき物があるようにも見えるが・・・
天気が雨降りそうなので、これだけ見て結構満足してたりもする。
相変わらず手抜きな調査だし・・・次回があったらそれにかけてみよう。
- 2012/11/03(土) 03:24:54|
- 城館探訪の事(群馬県)
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苗ヶ島城はこの辺りに移住した阿久沢氏の本城で、今も阿久沢さんがお住まいになっている。

東側はそうでもないが、西側は川を利用した地形になっていて、結構比高差はあった。

一部堀切らしい通路があったが・・・これは遺構だったのだろうか?
一回り回ってみたが、目ぼしい遺構は見つからなかった。
本当に天候が悪くなってきたので、次の遺構へ向かう事に。
- 2012/11/02(金) 03:42:26|
- 城館探訪の事(群馬県)
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