今日はクリスマス、サンタさんが色々なご家庭にプレゼントを配っていると思われる頃、
我が手元にもあるプレゼントが・・・

我がPC用に新しくきた新キーボードである。
前のキーボードに比べて、パチパチと心地よいタイプ音が聞こえてくる。
これを聞きながら色々と仕事が出来ると楽しくなりそうだ。
って事で城館跡に関係する事をまったくやらなかった休日であった。
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- 2012/12/24(月) 22:12:13|
- その他の事
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今日は学生時代からの友人と一緒に横浜へ行って来た。

埼玉から電車ではるばる2時間以上かけて、ようやく桜木町へ。
天気がどんよりしている上、吹き抜ける風が非常に寒い。
それでも日曜日なので人手は多く、結構な賑わいを見せていた。

近くには昭和59年に引退したという日本丸という船舶があった。
船は自分の守備範囲外なので価値がよく分からないが、結構いい船らしい。
そこから今度は横浜駅へ移動する。
我が友人のお目当ての場所へと向かった。

横浜駅から南に歩いたところに横浜三井ビルディングという商業ビルがある。
お目当ての場所はどうやらこのビルの二階にあるという。

ビルの前にはそらを見上げる謎の像が置かれている。
見た目では分からないが、軽く人の二倍ぐらいの背丈はある像である。
なんとなく気に入ったので、思わず写真を撮ってしまった。
二階にあったのは世界的に有名な鉄道模型愛好家である原信太郎氏のコレクションが展示されている、
その名も「原鉄道模型博物館」である。
博物館のホームページによれば、原氏は鉄道趣味に大変な功績を残した人のようで、
その秘蔵のコレクションは六千両にも及ぶというのだから、素人の自分から見てもすごい。
氏は技術屋としてよりリアルに政策する事にこだわりを持ち続けたようで、
博物館に展示されている模型一つ一つにその驚くべき技術が濃縮されている。

って前置きが長くなったが、写真は博物館の入口で、チケットに付いているバーコードを自動改札機に模したゲートで読み込ませると通れる仕組みになっている。
中は博物館とは名ばかりのオシャレな内装で、基本色を白で統一している。
なお、博物館内は撮影禁止になっていたので、写真は一切無いが見ごたえはかなりあった。
あの芸術を見る為なら大人一人1000円でも、むしろ安い方かも知れない。
その後の15時から18時まで世界最大級といわれる室内レイアウトの撮影許可が出るのだが、
空腹には敵わず退場した。

横浜駅の飲食店でマグロ丼(880円)をいただき、満腹の一時をすごさせてもらった。
その後、クリスマスケーキを探してウロウロし、寒いので夕方にはお開きにして帰ってきた。
横浜の町というのは歩いた事がなかったので、結構楽しませてもらった。
- 2012/12/23(日) 23:07:23|
- お付き合いの事
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今日は日頃当サイトにてお世話になっている
「城郭図鑑」の管理人であらせられる軍曹殿と城館探訪をさせていただいた。
こちらの軍曹殿は全国各地を点々と探訪されているすごい方の一人。
二人とも夜が明けぬ早朝に出発し、目指した場所は群馬の甘楽郡。

まず目的の山城の前に以前の武蔵直登忘年会で訪れたこの城へ。
前菜としてちょっと立ち寄ったがなかなか豪快な遺構に二人ともテンションが上がる上がる。

そしてメインディッシュである山城を歩いている内に、天気は東の空から曇りがちに。
それでも城のよき遺構に見せられ、まはやブースト状態。
途中、城館探訪にて昼寝するクセのある儀一は一時間ほど昼寝タイムに入る。
それでも貪欲に城を求め続ける軍曹殿の情熱はもはや脱帽もの。

そして最後に訪れたこの山城は二人とも初めてであったが、
なかなか豪快な堀切があってとても楽しかった。
おそらくトータル10ヶ所ぐらい回ったが、結構楽しく回らせてもらった。
探訪した城館跡の詳しい内訳は
軍曹殿がブログにて書かれるかも知れないので、
そちらをご覧いただく事にしていただこう。
最後に本日の探訪にお付き合いくださった軍曹殿に
篤く御礼申し上げる所存。
- 2012/12/17(月) 21:49:56|
- 城館探訪の事(報告編)
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武州松山城所在地
本日は大変お日柄が良いので、松山城にお絵かきの練習に行った。
ところが!肝心のお絵かき道具(バインダーや鉛筆など)を忘れてしまった。
仕方ないので、通常通りの城館探訪という事で、
今まであまり見なかった所を中心に回ってみた。

三の曲輪横から伸びる土橋。
かと思えばよく見ると若干堀切にも見れる窪みがある。
偶然か?故意か?考えてみるのも楽しいものだ。

惣曲輪の一部にある土塁脇の通路。
通路を狭くして攻め手方が一挙に城内に入るのを防ぐ基本的な遺構だが。
改めて眺めてみるととても味わい深い。

城の南側を歩くと、さりげなく土塁が城を取り囲むように築かれているのを気付く。
流石に松山城クラスになると、こういう大きな土塁もさりげなく置かれている。

プチ鉄塔関連が入るが、松山城から見えるこの鉄塔・・・。
そうこのブログにたまに出てくる只見幹線423号である。
この鉄塔が巨大なのもあるが、ここから坂戸市赤尾付近が見渡せるというのが
肉眼でハッキリと分かった。
こうして埼玉県の城を再訪問すると、とってもいい。
早くオリジナル松山城縄張り図を書き上げ、このサイトにアップしてみたくなる。
(その前に通常の更新を再開しないとまずいのだが・・・)
- 2012/12/16(日) 21:50:02|
- 城館探訪の事(埼玉県)
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昨日手子丸城を歩きながら、縄張り図を描いてきた。
山頂の背後、南側は急斜面で何かありそうだったが行くだけの勇気はなかった。
北と東に尾根が続いており、そこに幾つもの平場を設けているのがこの城の大まかな構造。
そんな遺構を自分が描いてみると、以下の写真になる。

持参した資料の裏側に突発的に書いたので、微妙に関係ない物が映っているが
ここまで消えていれば気にすまい。
だが、城の範囲と言われている部分の1/3の上記部分を書くのに軽く半日かかっている。
一部書き間違えた所もあってお見苦しいが、練習なのでこんな感じ。
流石に現地で陰を書くゆとりはないので、簡易ケバ図にてスケッチ。
これをさらに陰つけて仕上げたのが次の写真。

うーん、なにか違う。
この城で幾つかしかない貴重な堀切が表現しきれていないのが残念だ。
これを山崎一先生の図と見比べてみたが・・・
同じ遺構(と言っても数十年の誤差はあるが)で結構違って見えたところが多い。
自分の描いた下書きの方は、現地にてしっかりコンパスを見ながら描いているので、
恐らく上が磁北のはず・・・
今回学んだ書き方は以下の通り。
1、本曲輪にて縄張り図の基礎となる本曲輪の形状を書く。
2、各曲輪の末端にて方角をコンパスにて確認しながら尾根の方向を把握する。
3、本曲輪から出来るだけ書き足して行き、次の尾根に行くときは面倒でも本曲輪まで一旦戻る。
4、各曲輪の形状は既成している曲輪の方角を確認しながら書く。
5、距離感を測れるようにする事。
5の距離感はまったく適当であったが、こんな絵が完成した。
これで距離も正確ならよりよい縄張り図が完成するはず。
でも猛烈な藪に覆われている場所にてどうやって距離を測るか?
『城館調査ハンドブック』に書かれているように歩幅を75cmで歩けるようにするのが、
一番手軽で誰でもできる方法かも知れない。
こんな訳でお粗末な絵が完成しただけだった今回の探訪。
これで学んだ事を活かし、埼玉の主要山城でも実施して、お絵かきしてみたいものだ。
- 2012/12/10(月) 20:54:04|
- 研究の事
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今日も城館探訪をしてきたのだが・・・思い切り城館所在地の書き示した地図を忘れた。
ので、今回はお絵かき(縄張り図描き)を主にやってきた。
それで対象の城は・・・

ずばり、先々週時間切れでいけなかった群馬県東吾妻町の手子丸(大戸)城。
麓からの比高差はおおよそ180m(拙高度計より測定)もあり、
周囲が山でもこの山頂は見晴らしが良い。
しかし、下山するお昼過ぎまでに描けた範囲は僅か1/3のみであった。
やはり他様で書かれている通り、この城の範囲は結構広すぎた。

数年前に話題沸騰していた群馬県長野原町の川原湯温泉付近にある八ツ場ダム建設予定地。
写真はJR川原湯温泉駅前の写真だが、駅前は殺風景の一言。
それよりすごいのはダム建設の象徴としてよく映像にでる背後にある橋の建設現場。
あんな細い橋脚で作りかけの橋本体を支えているのが見ていてすごいと思った。
もっとも橋が完成したらもっと重くなるから、この位はいける範囲なのだろう。
そえにしてもここも湖底になったら、某サイトで調査の対象になるのだろうな。

充分な高さのある場所は新たに移設する鉄道の駅が建設中であった。
でもこうしてみるとまるで鉄道模型のワンシーンのようだ。

写真じゃ分からないが粉雪がちらつき始めた。
実はこの数時間後結構雪が積もってビックリ。
この辺りも雪解け以降まで調査はお預けになりそうだ。
- 2012/12/09(日) 23:41:56|
- 城館探訪の事(報告編)
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萩生城所在地国道406号線を高崎方面に戻った途中に萩生城がある。
字境野にある為、地元では境野城とも呼ぶようである。
手掛かりは大まかな場所と縄張り図のみである。

そんな曖昧な情報しか持ってなかったので、1時間ぐらい鉄塔観察して楽しんでしまった。
大まかな場所はというと、国道406号(草津街道)の下田バス停から東に見える丘が萩生城。
境野集落から比高差30mほどというお手軽さがなかなかいい。

境野集落の写真の十字路を北に曲がれば萩生城へいける。
なお、地元の方の話だとこの細い路地がかっての草津街道だったとか。

さらに城の近くまで車でいけるよと地元のおじ様は仰っていたが、
流石にこれだけ狭い路地だと車はキツイかも。
写真の中央左にある坂を上がれば萩生城の大手である。

城への道は脇に土塁らしき土盛にそって進む。
大手口のはずだが、それほど防御設備がなく、なんだか拍子抜けだったりする。

土橋のある辺りは笹薮になっている為、写真が撮れないのが残念。
でもこの笹薮を左に曲がれば、堀底道経由で本曲輪の南側に回れる。

本曲輪は畑になっており、ここまで来るだけなら藪もなく楽に行ける。
さあ、この周囲をめぐる遺構を見に行こう(ダジャレ入ってる・・・)

少々の藪はあるが、いい堀があるじゃないか。
本曲輪の周囲を堀が巡っているのが歩いてみてよく分かった。

少々浅いが写真写りが一番いいと思われる堀切。
実は内側に曲がって掘られていたらしいが、全然気付かなかった・・・。

北側に大しては二重の堀を設けたりしてるのに、南側は比較的フラットそのもの。
どちらかといえば大戸方面にそなえて築かれたような印象すらも。
ここまで見てつい衝動でお絵かきしてしまった。
現地でお絵かきしたのは下の写真。

藪のむごいところは完全に手抜きだが、おおまかにこんな形をしている。
お絵かきして満足し、城を後にした所で道案内してくれたおじ様に再会。
どうやら自分以外にもよくこの城について尋ねられるとの事。
その後ちょっと雑談などをしてしまったのであった。
そして、自分のような城館探訪者に対して好意的に接してくださったおじ様に再度お礼を申し上げた。
流石に途中で昼寝をしたので、少々時間が押し迫ってきた。
今回は残念ながらメインディッシュの手子丸城を諦め、次の城へ向かった。
- 2012/12/07(金) 04:26:00|
- 城館探訪の事(群馬県)
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羽田城所在地大柏木の字羽田(はんだ)にあるので羽田城、別名を「大柏木城」や「芳の城」とも言うらしい。
羽田筑後守および羽田長門守康文が城主であったと『吾妻郡城壘史』には書かれている。
竹地区より山を越えて羽田城へ向かう、途中で「的場」の地名があるので気になるが
今日はまず確実な遺構を見る事を専念していく事に。

羽田城への目印は羽田バス停と上空を通過する鉄塔(西群馬幹線?)だろう。
丁度道幅の広い新道が出来て、旧道にいくらかゆとりがある場所があったので
そこに車を停めて鉄塔のある尾根筋を登っていく。

ここまでは車でも来れるが、車一台がやっと通れるスペースなので、
先ほどの通りに停めてきて正解だったようだ。
ここから田んぼの脇を通り、城へ向かう。

途中で電気柵が設けられているので、足元を気をつけながら進んでいく。
流石に11月の下旬ともなると電気を流していないかも知れないが、
万が一に備えて慎重に跨ぎ、城への道を進む。

電気柵を越えるとすぐに笹薮が生い茂る。
この辺りは幾つかの段を設けており、根小屋などがあったのではと想像。

そうこう笹薮を掻き分け上り詰めた所に本曲輪あり。
比較的一直線に本曲輪に着いてしまい、ちょっと拍子抜け。
しかし、この城の本当の凄さはこれからだった。

本曲輪の直後にはジャンボ堀切が。
埋もれた今でもこれだけの深さを持つのに、現役時代はどんな深さだったのだ。
写真じゃ伝わりにくいが結構な工事量の堀切である。

改めて別角度より堀切写真を。
箕輪城の堀切ほどではないが、この規模の城でこの堀のでかさはちょっと釣り合わない気もする。

北曲輪を隔ててもう一回堀切がある。
先ほどの堀切に比べてやや小柄だが、くっきりと切れているのが分かるよい堀切だ。

そして個人的にお待ちかねの鉄塔タイムが間近に!
城の遺構を破壊して鉄塔の立つケースは多いが、この城はそれを免れており安堵している。
この鉄塔の路線名を、そしてこの子のナンバーを知りたい!!

と思ったら、何故か鉄塔の周囲は激しいブッシュになっており、容易に侵入者を近づけない。
えー、普通は城の方が侵入が難しいのに、ここでは鉄塔に近づく方が難しいなんて。
ちょっと周囲をグルグルと回ろうかと思ったが、結構歩くのも容易ではないので諦めた。
きっとこの程度の藪なら武蔵直登のメンバーなら突撃しているのだろうな。
この鉄塔に関しては後日ネット上で調べるとする。

羽田城に戻ると、西側を空堀を巡らし、西側からの侵入者を阻んでいる。
西からの侵入者と言えば信州の真田氏か。
詳しい資料がないので分からないが、ここも激しい攻防戦があったのか。
麓からの比高差はおおよそ80mぐらいだが、いい遺構が残されているので満足だ。
車に戻って腹が減ったので持参のオニギリを食べたら急に眠気が・・・。
ひとまず一休みして、次の城に向かうとしよう。
- 2012/12/06(木) 03:17:42|
- その他の事
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須賀尾古城所在地
この辺りは古城という地名があるようで、南側には温川が流れている。
恐らくは先の丸山城が作られる前の城だったのだろう。

古城付近より西を望む。
中央付近の山頂が鷹繁城で、麓の手前の清水集落内に丸山城があった。

国道406号沿いに諏訪神社が古城への目印となっている。
この辺りも古くからの集落で、道路脇を音を立てて水が流れていた。

この辺りの棚田になっている所あたりが古城と思われるが、
今ではご覧の通り完全に農地化しているようだ。
城の遺構は別にして、綺麗に段を作って水田にしているこの地形が素晴らしいと思った。
本城である大戸(手子丸)城と物見である鷹繁城の間に山があり、直接見る事はできない。
その中間付近には竹(館?)とか本丸とかかなり怪しい地名があるので、
その辺りを探すと物見があるのかも知れないな。
っと思ったが、埼玉県以外まがい地めぐりをしたら幾ら時間があっても足りなくなる。
って事で次なる城へ移動するのであった。
- 2012/12/05(水) 03:01:23|
- 城館探訪の事(群馬県)
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丸山城所在地
丸山城は須賀尾地区の清水にあったとされる城で、
大戸城の家臣丸山勘解由・高橋丹後守らの寄居であったという。
確かに地元の方に伺ってみると丸山姓の方は今も多いそうだ。

西側より丸山城を見る。
南に下るなだらかな傾斜に堀を加えているのがなんとなくだが分かる。
こちらからのアクセス方法は見当たらなかったので、表通りに出て民家脇の小道より城に行く。
途中で住民の方に出くわしたので、ちょっと色々と尋ねてみる。
儀「おはようございます、ちょっと通りますね」
住「おはよう、いいけどこの先何もないよ」
ここで手持ちの資料を見せる。
住「ああ、丸山城か。行っても何もないよ」
儀「そうですか、では見学させていただいていいですか?」
住「構わないけど何にもないよ」
儀「ありがとうございます、では拝見します」
・・・という感じに「何も無い」を強調されたが、何も無いからこそ
想像力を働かされるのではないかと内心思っていた。

我々中世城館探訪者には「何も無い」は一般規準だというのをよく知っている。
城内は基本的に畑や藪になっているが、それほど激しく破壊はされていないようだ。
って事で堀跡発見。

笹薮になっていて分かり辛いが、沢が堀の役割を果たしている。
これにより北側との尾根筋は断っている。

にしてもこんな堀跡が残っているだけでも大収穫であろう。
さっき話をした住民の方は居なくなっていたので、
代わりに別の方にお邪魔しましたと伝え、次なる城館跡へ移動する。
- 2012/12/04(火) 03:40:51|
- 城館探訪の事(群馬県)
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正直言って放置(汗
埼玉県の何も残っていないのを良いと思っていた自分が、隣県の遺構ばかり見に行っている。
これを浮気と呼ばずしてなんと呼ぶ?
埼玉の中世城館跡も大部分を回ってしまうと
どうもモチベーションを保つのが難しいもので、
やはり自分も人の子だったのだなっと改めて思うのであった。
それはさておき、公開してもイマイチなページも多々あり、
そういうページのリフレッシュを少しずつやっていこうかと考えている。
もちろん、ご覧になっている皆様のみならず
自分自身も見て参考になるサイトを作らねばならない。
(もっともサイトを作った主旨は自分の閲覧用だった)
やる事は多いけど、まったりやっていこう。
- 2012/12/03(月) 21:40:38|
- このサイトについての事
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今日はご家族さまをお連れして(またも)群馬へ。
途中で嵐山町の杉山城に立ち寄ってみた所、日曜日だけあってポツリポツリと見学の方が。
流石に全国に知れ渡った山城と言った所。

いつの間にか杉山城パンフレットが配布されていた。
やはり国指定史跡ともなると違うね。
それから高速道路に乗って、一路群馬県へ。
今日訪れたのは高山村。

バックを雪山に中東京幹線が南下してくる姿はとても素晴らしい。
手前に見えるのが160号で、埼玉県日高市の中東京変電所付近の400番台まで
ずっと続いているというのが実に感動的である。

もちろん可能な限り中世城館も見てきた。
高山村のほぼ中央に位置する中山城、国道沿いに駐車スペースとも取れる幅があり、
停めても良さそうだったが、念の為止めておいた。

特にお気に入りのシーンはこれ。
中山城の竪堀の大きさが、手前の軽自動車があるお陰で比較できる。
遺構の大きさをこういう形で再現できたのは素晴らしい。
見知らぬ通行されたドライバーさん、どうもありがとう。
その後温泉に行って、しっかり身体を温めてきた。
- 2012/12/02(日) 20:29:13|
- その他の事
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鷹繋城所在地
鷹繋城は旧吾妻町でももっとも西にある。
写真の山の山頂にあり、比高差はおおよそ200mとの事。
実はこの城を事前にネット検索したが、何処にも訪問ルートが書かれてなかった。
ので今回は独力で行く事に・・・。

ただ、意気込みすぎて実は夜明け前に着いてしまったというオチが。
しばし車の中で今回訪問する城館跡について資料を読み直す。
そして段々外が明るくなってきたので、早速行動開始。

須賀尾地区の清水という所が幾つも道が分かれているので、
ひとまず鷹繋城の南に向かう温川温泉方面へ。
橋を渡って某旅館の社員寮を抜けた辺りで写真のお地蔵さんがある。
この脇道から城にアクセスする事に。

すると墓所に出るので、そこから東に削平された地形が続く。
おおよそ40m程歩いた所で谷になっている所があるからそこから登ってみる事に。
その際迷子にならないように、写真の黄色のテープでマーキングしとくことに。

途中からググっと急斜面を登る事になるが、山城に行くといつもの事。
ただ、この後何件か山城に行くので、休み休み進む事にした。
ちなみに今までの写真の殆どが帰り道で撮影したもので、
行きは目には見える明るさなのだが、写真は全然写らなかったのである。

見える!我が目に魅惑の地形がそこにあるのがはっきり見える!
山頂付近に来て、この地形が見え登る足も段々早くなる。

ついに遺構とのご対面。
小さな堀切だが、岩を砕いて掘ったその堀切には熱い物が感じられる。

本曲輪と思われる部分は非常に狭く、烽火台だったというのもうなづける。
周囲は崖になっており、先端部分には写真に写らないがワイヤーが立ち入れないように張られている。
そして南東の方角を見ると・・・。

ご来光を拝むという機会に恵まれる。
やはり山城で朝日を拝むというのは個人的に感動するものがある。
この時朝日に気を取られて気付かなかったが、テレビアンテナもあったのだな。

先ほどの平場とこの堀切以外、特に手の付けられた地形は見当たらなかった。
だがこの堀切を見るだけで、ここまで来た甲斐があったというもの。
その後転がるように山を降り、次なる城館跡に向かったのであった。
- 2012/12/01(土) 04:18:00|
- 城館探訪の事(群馬県)
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