自分の中では恒例になってしまった城館「まがい地」めぐり。
今回は畠山重忠公の生まれ故郷に程近い場所にある字中居・馬場に突撃してみた。

最初に字馬場から。
写真の竹薮は南側から眺めておりますががいい感じに広がっている。

竹薮を道路が貫通しており、北側に回ると若干低くなっている。
ただ地形的に竹薮の方が若干高まりになっている程度でとくに目ぼしい遺構は(もちろん)ない。

今度は本題である字中居へ。
おお、なんとなく怪しげな竹薮が!
さっそく近づいて見る事に。

この藪の一画だけ現在の道割りと異なった形状をしており、興味が引かれてしまう。
竹藪の外は根除けの堀だと思われるがしっかり区画されている。
念のため戦後米軍が撮影した航空写真をみてみたが、この部分は茂みになっていた。
ただ、この周辺の地形を見てみたが民家の敷地を合わせても50mちょっとぐらいで、鎌倉期の方形館にはちょっと及ばない。
しかし、この北西には畠山重忠の居館と南に家臣本田ニ郎親恒の館がある事を踏まえると、重忠の郎党が居住していたのだろうか?
でも気になるのは「中居」という名称。
大抵はその土地の領主の居館に使われる名称であるので、畠山氏の居館に使われていれば納得いくのだが・・・
実際に当時の畠山氏の居館が明確に残っていない以上、想像でしか考えられない所はある。
そんな事で次なる場所へ移動するのであった。
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- 2011/05/06(金) 13:01:49|
- 城館まがい地の事
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