先の屈戸と同じ地名であるが、こちらはまったく場所が離れて荒川の堤防内。
ここは旧大里町屈戸字中廓と宮廓である。

荒川の堤防上から屈戸字中廓(左側)と同宮廓(左側)を望む。
この辺りは荒川の川辺に集落があったのだが、昭和初期の堤防築堤に及んで立ち退きされたのだという。
川向の熊谷市新川もかっては村だったというが、現在は堤防の内側になるので住む人はいないという。
本題に戻って、この茂みは・・・実に興味が沸いてくる。
早速堤防を降りて行ってみる事に。

堤防の内側にはなにやら道路が。
これは何だろう?っと思ったら看板があった。

ふむ、どうやらテストコースらしい。
車か何かを走らすようで、テスト時には孤立できるように鎖で道を封鎖できるようだ。
幸い今は行っていないようなので、速やかに道路を渡る。

写真じゃ分からないかも知れないが、茂みとその周辺の地形が高い。
明治時代の日本陸軍によって作図された
迅速側図を見ると、僅かだがこの辺りには集落があったようである。
目の前に見える墓地もその名残で当時からある墓地なのだろう。
でもこの辺の墓石は「○○家奥津城」と書かれており、神道系のお墓が殆どであった。

これは土塁?
いやいや、単なる土盛りでしょう。
どうもまがい地めぐりをすると、過剰反応になりがちである。

茂みの方に近づくとこんな看板が。
確かに竹林になっていて、時期が悪いと竹の子泥棒と勘違いされてしまう。

ふむ、これは土塁?でも内側(右)が堀って可能性も。
全ては竹薮となっているため真相不明。
結構気になる場所のひとつである。

そのまま竹薮をつっきって河原へ
茂みのある辺りが川より5m程の高さがあるのがここに来て分かった。
先の看板にあった事もあるので、間違えられない内に退散する事に。

変わって川上の方に歩いてきたら、こういう場所へ。
これだけ見てると城館遺構を見ている気分になってしまうが、この直下は荒川である。

写真じゃ分かり辛いが、ここだけ少し高い所にあり、何も無ければおおよそ10m前後のスペースがある。
ここもなんとなく意味ありげな感じに。

かくして調査終了。
それにしても河原岸の自然堤防上にあり、これだけの空間を擁しているのが気になる所。
中世期には荒川は現在の元荒川が本流であっただけで、こちらも分流が流れていた可能性は充分ある。
とすればここを城館跡と仮定すれば荒川の水運を見張る役割を果たしていた事は考えられる。
色々と妄想が沸き立つが、今は麦畑が風を受けながら揺れているだけである。
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- 2011/05/13(金) 12:00:28|
- 城館まがい地の事
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