埼玉県比企郡嵐山町の吉田地区には、もう一つ気になる地名がある。
それは「字馬場(ばんば)」である。
馬場とは中世期の城館跡を探訪されている方ならご存知の通り、中世の武士たちが馬に乗って調練した場所に名づけられる場所である。
字馬場より東に400mには中世城館跡である滑川町の「泉福寺館」が所在しており、そちらの馬場である可能性も・・・なくはない。
ではその現地に行ってみよう。

字馬場の地形は西が丘陵で、東は滑川が作る低地になる。
そんな滑川を見渡せるような場所にちょっと広い空き地があったりもする。
その他グルグルと回ってみたが、目ぼしい物は当然ない。
ならばこの丘の上にある宗心寺を訪ねて見る事にした。

坂を登っている途中で立派な墓石のある墓地を見つけた。
みればこれから向かおうと思っていた宗心寺の開基である折井氏・田中氏の墓所だとか。
『嵐山町誌(実は二冊あって、その内の昭和58年版)』によれば、折居市左衛門が比企郡吉田村に4百石の知行を得ていた事が分かった。
旗本であれば知行された土地の中で、最も江戸に近い領地に屋敷を構える傾向があるようだ。
(江戸に出向するのに近い方が便利だからだろう)
折井氏の領地と石高はここ吉田村の他に、児玉郡西富田村二六〇・四方田村一四〇・山王堂村五四(以上現本庄市)・大里郡春野原村一二五(現熊谷市樋春)・男衾郡千代村七五(現熊谷市)・常陸国真壁郡倉持村一四五(現筑西市)となっている。
もし在地していれば江戸に近い立地条件や広い領地から見て、この吉田に居た可能性は高いだろう。

何気に宗心寺の周囲の道路なのだが、クランクしているのが気になってしまう。
ここまで登ってくると結構見晴らしは良い。

寺の近くには謎の墓石が・・・と思ったら墓石ではなく何かの碑のようだ。
寛政年間に作られたようだが・・・何らかの目印なのであろうか?
っという感じで調査をしていたが、急な眠気が襲ってきたので今回はこれまで。
嵐山もまだ調査をしていないところが多いので、早期に再訪問したいものである。
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- 2011/06/19(日) 04:40:34|
- 城館まがい地の事
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