先日の愛知県遠征でふと思ったのが徳川家康が関東に入国してからの埼玉の城郭の扱いである。
そこそこの規模のある城郭は、家康の家臣の城になっている。
しかし、北条氏邦の居城ともなった鉢形城は何故か小田原の役を最後に廃城になっている。
鉢形城の支城であった雉ヶ岡城ですらも松平家清が入城しているのに何故だろう?
北条方の主要城であった城郭の中で選ばれなかった(廃城になった)城の地形に注目してみた。
河越城・岩附城・忍城・松山城・深谷城・羽生城などなどは家康家臣が入城している。
それに対して(正確に東京都になるが)八王子城・鉢形城は北条方の重要拠点であったにも関わらず廃城になっている。
この違いはずばり山地が迫っているか否かの違いがあるのではないかと思った。
確かに時代は戦国末期、地形に任せた要害という条件のみならず、広い土地を必要としていたのかも知れない。
それを考えると八王子城は山奥なので即アウト、鉢形城は八王子城ほどではないが周辺に山が迫っている地形ではある。
元々それなりの規模の城で、周辺が平野かそれに等しい地形が求められたのかも知れない。
家臣の城の選別を見るとこれからの時代を家康がどう考えていたのか?その思案を垣間見れて面白いかも知れない。
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- 2011/08/24(水) 04:50:10|
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